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「理性の崇拝」、とカントの『純粋理性批判』『実践理性批判』について
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イギリス理神論をフランスで嗣いだのは[[ヴォルテール]]である。イギリスでは論争になるだけの見解でも、カトリック教会が権威をもっているフランスでは異端邪説となった。ヴォルテールは「神がもし存在しないなら、創り出す必要がある」と言った奇妙なキリスト教徒であった。彼はキリスト教にまつわるさまざまな伝説・聖物を笑いものとし、[[無神論]]の手前まで進んだ。[[エティエンヌ・ボノ・ドゥ・コンディヤック|コンディヤック]]、[[クロード=アドリアン・エルヴェシウス|エルヴェシウス]]、[[ポール=アンリ・ティリ・ドルバック|ドルバック]]、[[ジュリアン・オフレ・ド・ラ・メトリー|ラ・メトリ]]などは[[ルネ・デカルト|デカルト]]の[[機械論]]を受け継いでおり、理神論者とほとんど区別がつかない。彼らは人間を機械の一種と見なしているのでそれを最初に創造した機械工(神)を想定しないわけに行かないからだ。
 
[[ジャン=ジャック・ルソー|ルソー]]が『エミール』第4巻で披露する[[有神論]]は、理性ではなく感情に基礎をおいている。その自然宗教では特定の人間に示されるような啓示は必要ない、とされている。ルソーの「有神論」は[[マクシミリアン・ロベスピエール|ロベスピエール]]に受け継がれ、[[フランス革命]]が過激化した時期に「[[理性の祭典|理性の崇拝]]」に反対して挙行された「[[最高存在の祭典]]」にあらわれている。
 
ドイツにおける理神論の代表者は[[ゴットホルト・エフライム・レッシング|レッシング]]である。ただレッシングはキリスト教について固定した立場をとらず、「論証によって信仰を強制しよう」とする理神論者についても反対していた。戯曲『[[賢者ナータン|賢人ナータン]]』には、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教のうち、どの宗教を選ぶかよりも「人間であることで十分だ」というテーマが扱われた。
 
[[イマヌエル・カント|カント]]は『[[純粋理性批判]]』で理神論者が使った神の存在証明すべてが無効であることを証明したが、『[[実践理性批判]]』では神は理性によって認識されるものではなく、意志によって要請される存在として考えられ、[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル|ヘーゲル]]はカントのこのような神の論証を「矛盾の巣」と呼んだ。理神論はカントの手によって一度は殺されて、彼自身の手で復活させられたわけである。
 
== 脚注 ==