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新編武蔵風土記稿
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}}
'''羽生城'''(はにゅうじょう)は、[[埼玉県]][[羽生市]]に存在した[[日本の城]]。[[16世紀]]初頭の築城とされ、[[永禄]]3年([[1560年]])の長尾景虎(後の[[上杉謙信]])による[[小田原城の戦い (1560年)|関東出兵]]以降、上杉方の関東攻略の拠点となったが、[[後北条氏]]の度重なる攻撃を受け[[天正]]2年([[1574年]])閏11月に自落した。その後、城は後北条氏から[[成田氏]]に与えられ、天正18年([[1590年]])の[[徳川家康]]の関東入封後は[[大久保氏]]に与えられたが、[[慶長]]19年([[1614年]])1月に廃城となった<ref name="地名">{{Cite book|和書|author=平凡社地方資料センター 編|title=[[日本歴史地名大系]] 11 埼玉県の地名|publisher=[[平凡社]]|year=1993|isbn=9784-4582490114582-49011-5|page=919-921}}</ref>。[[昭和]]46年([[1971年]])、羽生市の指定文化財に指定されている<ref>{{Cite web|url=http://www.city.hanyu.lg.jp/docs/2015020700289/|title=羽生市の指定文化財|publisher=羽生市|date=2016-03-10|accessdate=2016-12-30}}</ref>。
 
== 歴史 ==
=== 築城時期 ===
築城時期や築城者について、江戸後期に編纂された『[[新編武蔵風土記稿]]』では[[弘治 (日本)|弘治]]2年([[1556年]])、[[木戸忠朝]]{{#tag:ref|忠朝は木戸氏一族の出だが当初は河田谷氏の名跡を継ぎ、河田谷忠朝と名乗っており、木戸姓を名乗ったのは[[永享]]12年(1569年)9月以降のことである<ref>[[#冨田 2010|冨田 2010]]、92-93頁</ref>。|group=注}}によるものと記している<ref name="風土記10">{{Cite book|和書|author=[[蘆田伊人]] 編・校訂|title=新編武蔵風土記稿|volume=第10巻|publisher=[[雄山閣|雄山閣出版]]|year=1981|isbn=9784-4639000211639-00021-9|page=287}}</ref>{{sfn|蘆田伊人|1929|p=287}}。ただし、『風土記稿』の説を裏付ける資料は存在せず、詳細は定かではない<ref>[[#高鳥 2016|高鳥 2016]]、150頁</ref>。一方、[[小田原市|小田原]]安楽寺に安置されている[[三宝荒神]]像{{#tag:ref|元々、羽生領の小松神社に安置されていたが、天正元年(1573年)に後北条方に持ち去られたと伝えられている<ref>[[#冨田 2010|冨田 2010]]、101頁</ref>。|group=注}}には[[広田直繁]]と河田谷(木戸)忠朝の連名で
{{Quotation|武州太田庄小松末社三宝荒神、[[天文 (元号)|天文]]五年丙申願主直繁、忠朝}}
と記されていることから、天文5年([[1536年]])の時点で直繁が城主を務めていたと推測されている<ref name="大系">{{Cite book|和書|title=[[日本城郭大系]] 5 埼玉・東京|publisher=[[新人物往来社]]|year=1979|isbn=9784-4404009760404-00976-3|page=186-189}}</ref>。なお、直繁と忠朝の両者は兄弟である<ref name="羽生168">[[#羽生市 1971|羽生市 1971]]、168頁</ref>。
 
『鷲宮町史』では祖父の代から[[山内上杉家|山内上杉氏]]の配下として活動していた直繁と忠朝の父・[[木戸範実]]も含め親子で入城したものとしており、上杉方には武蔵国へ勢力を拡大させようとする[[後北条氏]]に対抗するための拠点とする狙いがあったとしている<ref>[[#鷲宮町 1986|鷲宮町 1986]]、623-624頁</ref>。
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=== 成田氏の時代 ===
この後、羽生城は[[忍城]]主・[[成田氏長]]の支配下に置かれ、『[[関八州古戦録]]』や『[[北越軍談]]』によれば[[成田長親|成田大蔵少輔]]、桜井隼人佐<ref>{{Cite book|和書|author=槙島昭武著、中丸和伯校注|title=改訂 関八州古戦録|publisher=新人物往来社|year=1976|page=209}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=[[井上鋭夫]] 校注|title=上杉史料集(中)|publisher=新人物往来社|year=1967|page=56}}</ref>、『成田系図』によれば氏長の叔父にあたる善照寺向用斎、田中加賀、野沢信濃が共に城代を務めたと記されている<ref name="古代中世530">[[#行田市史編さん委員会 2012|行田市史編さん委員会 2012]]、530頁</ref>。これらの成田家臣に、『成田分限帳』に記された埴生出雲守、埴生助六郎、岩瀬半兵衛、川俣弥十郎などの在地にとどまった木戸氏の旧臣が従ったものと推測される<ref>[[#冨田 2010|冨田 2010]]、212頁</ref>。
 
一方、謙信は関東攻略を果たすことなく天正6年(1578年)に亡くなり、家督を[[上杉景勝]]が相続すると、翌天正7年(1579年)に[[甲斐国]]の[[武田勝頼]]と同盟を締結した([[甲越同盟]])<ref name="冨田204-205">[[#冨田 2010|冨田 2010]]、204-205頁</ref>。同年7月、勝頼は上野国に侵攻し、西上野の[[沼田城]]、東上野の大胡、山上、伊勢崎などの後北条方の諸城を攻略した<ref name="冨田204-205"/>。こうした状況の中で上野国に逃れていた木戸氏の旧臣の一部は、[[御館の乱]]の余波で混乱の続く上杉氏ではなく、勝頼を頼ったものと推測されている<ref name="冨田204-205"/>。天正8年([[1580年]])1月、菅原直則は[[前橋市|厩橋]]にある[[赤城神社 (前橋市三夜沢町)|赤城神社]]に祈願状を出し、勝頼の下で羽生城の奪回および領地回復を図ろうとしたが、天正10年(1582年)の武田氏滅亡などにより叶うことはなかった<ref name="地名"/><ref>[[#冨田 2010|冨田 2010]]、206-207頁</ref>。
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=== 大久保氏の時代と廃城 ===
後北条氏の降伏後、同年7月26日に[[徳川家康]]は[[諏訪頼忠]]に羽生領を含む2万7千石の領地を与えたが<ref name="地名"/>、同年8月に家康が関東に入封すると、羽生領は[[大久保忠隣]]に与えられ忠隣は2万石の領主となった<ref name="大系"/><ref name="中田">{{Cite book|和書|author=[[中田正光]]|title=埼玉の古城址|publisher=有峰書店新社|year=1983|isbn=4-87045-222-7|refpage=275-278}}</ref><ref name="寛政">{{Cite book|和書|chapter=藤原氏 道兼流 宇都宮支流 大久保|title=寛政重修諸家譜|volume=第4輯|publisher=國民圖書|year=1923|page=795-797|url={{NDLDC|1082713/406}}}}</ref>。ただし忠隣は羽生城に入城することはなく、家臣の匂坂道可{{#tag:ref|木戸氏の旧臣。鷺坂道可、鷺坂軍蔵と名乗り、後に出家して不得道可と号したともいわれる<ref name="高鳥160">[[#高鳥 2016|高鳥 2016]]、160頁</ref>。|group=注}}や徳森伝蔵が城代を務めた<ref name="風土記10"/><ref name="大系"/>{{sfn|蘆田伊人|1929|p=287}}。
 
[[文禄]]3年([[1594年]])、忠隣は父・[[大久保忠世]]の死去に伴い家督を相続し、羽生領を含む6万5千石の領主となったが<ref name="寛政"/>、その後も城代家老らが羽生の領地経営にあたった<ref name="高鳥160"/>。その後、慶長19年([[1614年]])1月に忠隣が改易となり近江国に蟄居するように命じられると、羽生城も同時に廃城となった<ref name="大系"/>。
 
== 城郭 ==
羽生城は[[利根川]]沿岸の舌状台地を生かした[[平城]]であり、その周囲は沼地に囲まれていたとされる<ref name="中田"/><ref name="西野">{{Cite book|和書|author=西野博道|title=歴史ロマン・埼玉の城址30選|publisher=[[埼玉新聞|埼玉新聞社]]|year=2005|isbn=9784-487889266087889-266-8|page=124-125}}</ref>。江戸後期に編纂された『[[新編武蔵風土記稿]]』や[[福島東雄]]著の『武蔵志』には次のように記されている。
{{Quotation|古城蹟<br />当城は平城にして西を首とし、東を尾とし、東南北の三方は沼にして、西の一方のみ平地に続き、此所に大手口ありし由、本丸と二の丸の境とおぼしき所に土手の跡残り、何様堅固の体なり、大手を入りて二の丸あり、そこの広さは東西南北四十間余、それより橋を渡りて本丸に至れり、此所は少しく地高く形円やかにして東西六十間余、南北四十間余、ここより良に当たり、天神曲輪と云あり、南の方に小沼と云沼一ヶ所、また北の方にも今はわずかの蓮池及び蒹葭生い茂れる、広き沼あり、何れも城ありし頃固めの沼なりし|新編武蔵風土記稿<ref name="風土記10"/>{{sfn|蘆田伊人|1929|p=287}}}}
{{Quotation|古城<br />蓑沢村の境町場に内東谷と云所にあり 天神あり 当地砂野土にて田多畑少 城南に丸沼あり 北に城沼あり 芦原あり 今は皆耕田となり|武蔵志<ref>{{Cite book|和書|title=新編埼玉県史 資料編10 近世1地誌|publisher=埼玉県|year=1980|page=181}}</ref>}}
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* {{Cite book|和書|author=行田市史編さん委員会|title=行田市史 資料編 古代中世|publisher=行田市教育委員会|year=2012|ref=行田市史編さん委員会 2012}}
* {{Cite book|和書|author=戦国合戦史研究会編|title=戦国合戦大事典第2巻 栃木県 群馬県 埼玉県 千葉県 東京都 神奈川県 山梨県|publisher=[[新人物往来社]]|year=1989|isbn=4-404-01642-5|ref=戦国合戦史研究会 1989}}
* {{Cite book|和書|author=高鳥邦仁|title=羽生・行田・加須 歴史周訪ヒストリア|publisher=まつやま書房|year=2016|isbn=978-48962309634-89623-096-3|ref=高鳥 2016}}
* {{Cite book|和書|author=冨田勝治|title=羽生城と木戸氏|publisher=[[戎光祥出版]]|year=2010|isbn=978-48640302744-86403-027-4|ref=冨田 2010}}
* {{Cite book|和書|author=羽生市史編集委員会 編|title=羽生市史 上巻|publisher=[[羽生市]]|year=1971|ref=羽生市 1971}}
* {{Cite book|和書|author=鷲宮町史編さん委員会 編|title=鷲宮町史 通史 上巻|publisher=[[鷲宮町]]役場|year=1986|ref=鷲宮町 1986}}