「テリー伊藤」の版間の差分

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大学卒業後は[[寿司|寿司屋]]や[[アパレル|アパレルメーカー]]の[[アルバイト]]を経て、[[1973年]]にIVSテレビ制作に入社。2年後に放送が開始された『[[びっくり日本新記録]]』に[[アシスタントディレクター|AD]]として参加し、テレビマンとしてのキャリアを開始させた<ref name="nksp_150719">{{Cite news|title=テリー伊藤 日曜夜が一番嫌いだったから・・・|newspaper=[[日刊スポーツ|日刊スポーツ(ニッカン芸能)]]|date=2015-07-19|url=http://geino-smp.nikkansports.com/column/column_article.zpl?topic_id=38&id=1509561&year=2015&month=7&day=19|accessdate=2015-08-25|archiveurl=https://archive.is/20150816185611/http://geino-smp.nikkansports.com/column/column_article.zpl?topic_id=38&id=1509561&year=2015&month=7&day=19|archivedate=2015年8月16日}}《現在は[[ウェブアーカイブ|アーカイブサイト]]「[[archive.is]]」内に残存》</ref>。その後、「[[シマウマ]]は素肌も白黒か?」や「[[たこ八郎]]に[[東京大学|東大生]]の血液を[[輸血]]して[[知能指数|IQ]]上昇実験」などを手掛けた<ref name="nksp_150719" />。
 
1985年に独立しロコモーションを設立。IVSにも籍を残し、自身も手がけていたIVS制作番組の『[[天才・たけしの元気が出るテレビ!!]]』や『[[ねるとん紅鯨団]]』のゼネラルディレクター・総合演出を引き続き行った。ロコモーションとしては[[電通]]や[[吉本興業]]と共に立ち上げた『[[浅草橋ヤング洋品店]]』がヒット作テレビ東京しては好調番組となった
 
[[1993年]]、[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]を訪問した際の体験談などを綴った『お笑い北朝鮮』を出版した<ref>{{Cite news|url=https://ddnavi.com/review/401377/a/|title=テリー伊藤が見た北朝鮮と若者たちの性事情…24年前に北朝鮮に対する心構えを提唱していた『お笑い北朝鮮』|newspaper=ダ・ヴィンチニュース|date=2017-09-20|accessdate=2018-02-04}}</ref>。
 
[[1995年]]4月にスタートした[[ニッポン放送]]『[[天才テリーの芸能ダマスカス]]』で[[ラジオパーソナリティ|パーソナリティ]]を務めその後放送時間の変更や『[[テリー伊藤のってけラジオ]]』などへの衣替えを経て、2015年3月の放送終了まで続いた。
 
小泉純一郎の郵政民営化の際には、新聞広告に竹中平蔵とともに登場し、民営化賛成の旗振り役を務めた。
2002年4月から2006年3月まで4年間にわたり、『[[ザ!情報ツウ]]』の火曜・金曜レギュラーコメンテーターを務めていた。さらに『ザ!情報ツウ』の後継番組『[[スッキリ!!]]』にも引き続き出演。MCに昇格して毎日出演となり、帯番組の初司会であった[[加藤浩次]]を支えていた。しかし、『[[スッキリ!!]]』は2015年3月27日をもってを降板した。
 
2002年4月から2006年3月まで4年間にわたり、『[[ザ!情報ツウ]]』の火曜・金曜レギュラーコメンテーターを週2回務めていた。さらに『ザ!情報ツウ』の後継番組『[[スッキリ!!]]』にも引き続き出演。MCに昇格して毎日出演となり、帯番組の初司会であった[[加藤浩次]]を支えていた。しかし、暴言の多かったテリー伊藤は、『[[スッキリ!!]]』は2015年3月27日をもって降板した。
[[映画監督]]の[[市川準]]に見出され、2006年公開の映画『[[あおげば尊し (2006年の映画)|あおげば尊し]]』に主演。
 
2007年頃、「キャラクタービジネスで10”10億円稼ぐ」ことを目標にプロジェクトを立ち上げ、「'''ナニティー'''」というキャラクターを誕生させる。また、その模様を2年半に亘り追った[[ドキュメンタリー]][[映画]]『[[10億円稼ぐ]]』では自ら監督を務めた。
2007年9月22日には、『のってけラジオ』で共演していた[[落語家]]・[[林家たい平]]の独演会にゲスト出演し、落語家デビュー。高座名は「'''林家テリ平'''」。
 
2007年頃、「キャラクタービジネスで10億円稼ぐ」ことを目標にプロジェクトを立ち上げ、「'''ナニティー'''」というキャラクターを誕生させる。また、その模様を2年半に亘り追った[[ドキュメンタリー]][[映画]]『[[10億円稼ぐ]]』では自ら監督を務めた。
 
2008年8月から、『厚生労働行政の在り方に関する懇談会』にて構成員を務めている<ref>{{Cite web
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}}</ref>。
 
2008年 ‐ 2013年まで[[日本放送協会|NHK]]『[[NHK紅白歌合戦]]』に出演。「話し方が嫌いなタレント・ランキング」では、みのもんたについで堂々第2位に食い込んだ<ref>http://rnking.goo.ne.jp >トップ>カテゴリ>芸能  2020年2月3日閲覧</ref>。また東出昌大、唐田えりかの不倫騒動で、カンニング竹山、太田光、土田、武井壮らが、他人の家のことには干渉しない方がよい、と常識的な見解を示したのに対してテリー伊藤は「面白いからやってるんだよ。竹山はテレビに出るな」と語った。
2008年 ‐ 2013年まで[[日本放送協会|NHK]]『[[NHK紅白歌合戦]]』に出演。
 
== 人物 ==
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[[ビートたけし]]とは友人であり、『[[ビートたけしのオールナイトニッポン]]』ではテリー伊藤を名乗る以前からネタにされている(『幸か不幸か』『幸せ丸十年』などに収録)。そして、たけしについて、「たけしさんって誰よりも男の哀愁があるんだよねぇ。そこに皆惚れてるんだよねぇ……。でもさぁ。俺だけは、たけしさんの哀愁以外だけを演出したいんだよぉ!」とダンカンと[[水道橋博士]]の前で語っている<ref>水道橋博士『藝人春秋』206頁</ref>。
 
元全共闘の新左翼だったテリーは、後に右派に転向したが、暴力的な体質は全く変わらず、フリーライターの[[ムネカタスミト]]によれば、テレビ業界の暴力体質<ref>ディレクターのADに対する暴力の常習化、独裁など</ref> の源流にいる存在とされ、著書で紹介されたディレクターは「当時のテリーさんは本当に恐ろしかったようで、業界でも一番の暴力ディレクターとして知られていた」「テリー伊藤のやり方(テリーイズム)を継承した人は、大体は暴力ディレクターになる」などと語っている<ref>晋遊舎ブラック新書「ブラック企業の闇―それでもあなたは働きますか?」125~126Pより</ref>。
 
2007年から[[オリコン]]が実施している「好きなコメンテーター」ランキングにおいて、07年から08年まで1位を獲得し、09年にも2位、10年にも3位にランクインしている<ref>{{Cite web
| date =2010-09-13
| url =http://career.oricon.co.jp/news/79684/full/
| title =「好きなコメンテーター」ランキング - ランキング結果
| publisher =[[オリコン|ORICON STYLE]]
|accessdate=2011年5月27日
}}</ref>。
 
2008年12月17日、TBS『[[バラエティーニュース キミハ・ブレイク]]』の生放送中、[[赤坂サカス]]内の特設スケートリンクからの中継終了後に、スケートリンク内で転倒し腰椎の一部を骨折。全治2ヶ月と診断された<ref>{{Cite news | url = http://www.sponichi.co.jp/entertainment/special/2008sainan/KFullNormal20081218115.html | title = テリー伊藤が骨折…番組中スケート場で転倒 | work = Sponichi Annex | publisher = [[スポーツニッポン]] | date = 2008-12-18 | accessdate = 2014-09-18 }}</ref>。