「サイモン・フィリップス」の版間の差分

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=== 日本における活動等 ===
[[1986年]]、ジェフ・ベックの[[軽井沢]]公演に同行、ここに[[カルロス・サンタナ]]と[[スティーヴ・ルカサー]]がセッション参加しており共演。ルカサーにはここで出会い[[TOTO (バンド)|TOTO]]加入の遠いきっかけとなった。[[1988年]]、[[ミック・ジャガー]]バンドのドラマーとして来日。[[東京ドーム]]が完成し、開場した3月18日から4日後、22日のこけら落とし公演で2日間、本家[[ローリング・ストーンズ]]の[[1990年]]の来日に先立って東京ドームのステージに立つ。1992年には、[[X JAPAN]]の[[TOSHI]]のファースト・ソロ・アルバム『made in HEAVEN』に全面的に参加。また、[[嵐 (グループ)|嵐]]のレコーディングにも参加(「WAVE」などの楽曲)。
 
=== TOTO参加 ===
[[1992年]]、TOTOのドラマーであった[[ジェフ・ポーカロ]]の追悼ツアーにジェフの代役として参加、そのままTOTOに正式加入することとなる。この頃、ロンドンからかねてより移住を考えていた[[ロサンゼルス]]へ転居する<ref name="pci1"/>。
 
これまでパーマネントなバンドメンバーとして活動することがほとんどなかったサイモンがひとつのバンドに固定の正式メンバーとして参加しているのは珍しく、TOTOへの正式参加理由について「TOTOのメンバーは非常にプロフェッショナルな実力派プレーヤの集団である」と、活動休止直後の『[[Player (雑誌)|Player]]』誌[[2008年]][[5月]]号のインタビューで語っている。また、TOTOは他のメンバーもサイモンと同様に全員がスタジオ・ミュージシャンや[[作曲家]]との兼業である。
 
TOTOは2008年3月に活動を無期限休止を宣言し、同年の7月には正式に解散するがそれまで在籍した。解散の2年後の[[2010年]]から、病気に倒れた[[マイク・ポーカロ]]支援のための再結成にも参加。その後自己の活動に専念するため、[[2014年]][[1月]]に(解散していた2年間を含め)20年以上在籍したTOTOを脱退する。
 
=== TOTO脱退以降 ===
TOTOが2008年に解散して以降、または2014年の再結成TOTOからの脱退以降は、以前と同様に特にパーマネントなバンドを持たずに自己のプロジェクトやバックバンドなどで精力的にセッション、ライ活動を行っている。
 
2011年後半は、ジャズピアニスト[[上原ひろみ]]の『VOICEツアー』に参加、以降も上原ひろみのバンド「The Trio」のメンバーとして[[アンソニー・ジャクソン]]と共に上原の作品や公演に参加している。
 
== 演奏スタイル ==
=== 多彩なジャンル ===
右手でスネアドラムを叩き、左手でハイハットシンバルを叩く、[[オープンハンド|オープンスタイル]]。自身のキャリアのルーツであるジャズでは[[ディキシーランド・ジャズ|ディキシーランド]]系から、プログレッシブなフュージョン、またポップ系では[[リズム・アンド・ブルース|R&B]]やポップ・ロックからヘヴィメタルまで、セッションプレーヤとしてみても非常に幅広くプレイできるミュージシャンである。元々はジャズ・ドラマーであり、現在も自己のプロジェクトや上原ひろみトリオなどジャズ系のプレイも盛んである。
右手でスネアドラムを叩き、左手でハイハットシンバルを叩く、[[オープンハンド|オープンスタイル]]。
自身のキャリアのルーツであるジャズでは[[ディキシーランド・ジャズ|ディキシーランド]]系から、プログレッシブなフュージョン、またポップ系では[[リズム・アンド・ブルース|R&B]]やポップ・ロックからヘヴィメタルまで、セッションプレーヤとしてみても非常に幅広くプレイできるミュージシャンである。元々はジャズ・ドラマーであり、現在も自己のプロジェクトや上原ひろみトリオなどジャズ系のプレイも盛んである。
 
=== 機材 ===
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[[録音|レコーディング]]/[[ミキシング]]・[[レコーディング・エンジニア|エンジニア]]、マスタリング・エンジニアとしての活動も行っている <ref name="phantom">[http://www.simon-phillips.com/mixing-mastering.php Simon Phillips Official Web Site Mixing/Mastering by Simon Phillips]</ref>。自身の作品もセルフミキシングが多い。
 
[[マイク・オールドフィールド]]のアルバム「Crises」『クライシス』から本格的にエンジニアとしての活動を開始。このアルバムでは本来プレーヤーとしてのみの参加であり、当初はエンジニアリングまで行う予定ではなかったという。しかしアルバム製作開始早々に当初の担当エンジニアが解雇されてしまった。そのままオールドフィールドから「君がこれを読みながらなんとかやってみてくれ」と唐突に機材のマニュアルを渡され、VUメーターの動きや配線の状態を頼りにレコーディングを開始し、結局最後まで行なったという。元々サイモンは[[マイクロフォン]]の機種やエンジニアによって自身の演奏の音質が異なることが気になっており、自身の満足するドラムサウンドを求めてマイクやコンソール、プリアンプの機種やマイクの立て方、モニターの特性を研究していたこともあり、これを機に自信を得てエンジニアとしての道を歩み始める。<ref name="pci1"/>
 
[[シュア (音響機器メーカー)|SHURE]]製品の愛用者であり、自身のドラムに立てるマイクのほとんどがSHURE製であるという。<ref name="shure"/>