「ダバオ誤報事件」の版間の差分

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虚報によって、ダバオにあった[[第三十二特別根拠地隊]]司令部は後方に退避し、[[第一航空艦隊]]司令部も暗号書を処分して退避した<ref>戦史叢書37 海軍捷号作戦<1>台湾沖航空戦まで 449頁</ref>。誤報と判明したのち、寺岡ら一航艦司令部はダバオに戻ったが、宿舎も防空壕も滅茶苦茶に荒らされていた。これは、暗号書を焼き、通信設備を破壊せよと命じられて残った将兵らが、戦闘が始まる気配もなく無為の時間を費やすことになったので、自暴自棄となって破壊行為を行ったものと考えられた。暗号書も満足な通信機器もないダバオではまともな作戦指揮もできないので、司令部で協議の結果、10月11日に[[マニラ]]に司令部を移動させることとしている<ref>{{Harvnb|門司|1978|p=246}}</ref>。
 
後日、事件の当事者であった一航艦司令長官の寺岡と第三十二特別根拠地隊の司令代谷は揃って事件の責任を問われて更迭された<ref>{{Harvnb|美濃部正|2017|p=265}} 遺稿</ref>。代谷はその後に[[予備役]]となったが、寺岡は、[[第三航空艦隊]]司令長官であった[[吉良俊一]]中将が病気となり、代わりに適任がいなかったことから、吉良に代わって三航艦の司令長官となっている。この人事には、参謀の猪口や小田原らが責任を問われなかったことも含めて、多くの問題があったとする指摘もある<ref name="hanseikai">{{Harvnb|海軍反省会⑨|2016|loc=電子版, 位置No.6434}}</ref>。寺岡が率いた三航艦は、1945年2月に[[マーク・ミッチャー]]中将が率いる高速空母部隊の[[第38任務部隊|第58任務部隊]]が[[ジャンボリー作戦]]のため、日本本土に向かって接近していたのを索敵の不首尾などから全く発見することができず、東京から125マイル(約200km)、房総半島から60マイル(約100km)までの接近を許している<ref>{{Harvnb|ブュエル|2000|pp=501-505}}</ref>。1945年2月16日の夜明けに悪天候下で艦載機の発艦を強行したおかげもあり、完全に奇襲に成功したアメリカ軍の艦載機は、1日中東京上空を乱舞し航空基地や工場施設を存分に叩いて、ほとんど日本軍からの反撃を受けず、32機の損失に対して350機の日本軍機の撃墜破を報告している(日本側の記録では陸海軍で150機の損失)<ref>{{Harvnb|ブュエル|2000|p=506}}</ref>。2月10日に[[航空艦隊#第五航空艦隊|第五航空艦隊]]の[[司令官#司令長官|司令長官]]に就任したばかりの[[宇垣纏]]中将は、敵大艦隊が出撃したという情報を掴んでいながら、第三航空艦隊の索敵の不首尾で、[[ドーリットル空襲]]以来の敵機動部隊の日本本土への接近と、奇襲を許して大損害を被ったことを激怒し「遺憾千万と云うべし」と陣中日誌『[[戦藻録]]』に記述している<ref>{{Harvnb|宇垣纏|1953|p=177}}</ref>。寺岡はその後も三航艦の司令長官として指揮を執り続けたが、終戦後に発生した[[厚木航空隊事件]]を捌ききれなかったとして更迭された<ref>{{Harvnb|海軍反省会⑨|2016|loc name=電子版, 位置No.6434}}<"hanseikai"/ref>。
 
一航艦は反撃のため航空機を[[セブ島]]に集結させていたが、敵上陸が誤報とわかって9月11日に集中を解いて各隊への分散態勢に戻すことを命じた<ref>{{Harvnb|冨永|安延|1972|p=44}}</ref>。主力の201空は11日に40機を[[ニコルス]]、20機を[[マクタン]]に分散させたが、しかし12日時点でまだ100機ほどが残っておりそこをアメリカ軍艦載機に襲撃された。41機の零戦が迎撃に飛び立ったが不利な態勢での空戦となり、23機のアメリカ軍機を撃墜したが、25機が自爆未帰還、14機が不時着し、地上でも25機が大破、30機が損傷という深刻な損害を被った<ref>{{Harvnb|伊沢|1975|p=89}}</ref>。この損害により通常の航空作戦が困難になったことが、誤報事件の失態で更迭された寺岡に代わって、航空特攻作戦開始を胸に抱いて一航艦司令長官に着任した[[大西滝治郎]]中将に、[[神風特別攻撃隊]]編成を決断させた理由の一つとなったとする指摘もある<ref>{{Harvnb|冨永|安延|1972|p=47}}</ref>。