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=== 日本での覚醒剤の歴史 ===
==== 第二次世界大戦中 ====
[[ファイル:Hiropon.jpg|thumb|200px|一般に市販されていたメタンフェタミン製剤ヒロポンの広告、疲労防止や回復といった効果が強調されている]]
[[ファイル:Mainichi Graphic clipping (24 November 1954 issue).jpg|thumb|200px|覚醒剤密造・販売の摘発(『[[毎日グラフ]]』1954年11月24日号より)]]
 
日本では、1941年(昭和16年)、大日本製薬(現[[大日本住友製薬]])がメタンフェタミン製剤'''[[メタンフェタミン#ヒロポン|ヒロポン]]'''、[[武田薬品工業]]がアンフェタミン製剤を'''ゼドリン'''として市販された<ref name="kenkyukai18"/>。ヒロポンの効果や売上げはゼドリンよりも大きかった。メタンフェタミン製剤は他に、ホスピタン、ネオアゴチンといった医薬品、アンフェタミン製剤は他に、アゴチンといった医薬品があり、密造品にも似せてそれらのラベルが貼られた{{sfn|覚醒剤中毒|1956年|pp=13-18}}。密造の売買に関わったものは主に朝鮮人とされる{{sfn|覚醒剤中毒|1956年|pp=13-18}}。仕事の能率を高めるなどとして[[精神科医]]の方面から宣伝され{{sfn|覚醒剤中毒|1956年|pp=13-18}}、夜戦の兵士や、軍需工場の工員に能率向上として半強制的に用いられ<ref name="風祭">{{Cite book|和書|author=風祭元|authorlink=風祭元|title=日本近代精神科薬物療法史|chapter=第10章:向精神薬の長期大量多剤併用療法と副作用|publisher=アークメディア|date=2008|isbn=978-4-87583-121-1|pages=74-75}}</ref>、兵役中に味を占める者が出てくる{{sfn|覚醒剤中毒|1956年|pp=13-18}}。そしてこの時期の乱用は、若年者に市販の安い注射剤が蔓延したものであった<ref name="覚醒剤中毒80"/>
 
ヒロポンの効果については、医学界で発売以降に様々な研究をしていたが、効果は「之を服用すれば心氣を爽快にし、疲勞を防ぎ、睡魔を拂ふ等の興奮効果があり、しかも習慣性、蓄積作用等がないので、現在歐米各國の民間に於て興奮劑乃至能率増進劑として好んで使用されてゐる。即ち米國ではBenzedrine、デンマークではMecodrin、ハンガリアではAktedron等の名稱を以て盛に賣出されて居る。時局柄、產業、事務等各方面に於ける本劑の利用も或は一顧の價値あらんかと、ここに御紹介する次第である。」と先に市販されている他国の例も出して除倦覺醒効果が強く有用な薬品であるとしていた一方で、常習性はないと分析していた。また不眠、食思不振、頭痛、焦燥感などの副作用も臨床実験で報告されていたが、効果・副作用を分ける基準が、主として被験者の主観的によるものが大きいとして特に問題にされていなかった<ref>[http://homepage2.nifty.com/akis/ronsou60.html#2-1 佐藤哲彦「医学的知識の構成について―「覚せい剤研究」の転換―」佐藤哲彦]{{熊本大学学術リポジトンク切れ|date=May 2018}}、1998年、29頁</ref>。
 
日本軍の覚醒剤の使用目的は、当時の医学界の研究成果の通り、「疲労回復」や「眠気解消」や「士気向上」程度を期待されていたものと推定される。それを証明する証言として、戦後の国会での厚生委員会で、厚生省薬務課長が戦中の覚醒剤の製造認可に対する質疑で「ヒロポン等につきましては、特別に製造許可をいたしました当時は、戦争中でありましたので、非常に疲労をいたしますのに対して、急激にこれを回復せしめるという必要がございましたものですから、さのような意味で特別な目的のため許したわけでございます。」と答弁しており、覚せい剤の使用目的は「疲労回復」であったとしている<ref>第7回衆議院厚生委員会第11号 1950年3月9日 星野政府委員答弁</ref>。特に、航空機パイロットに対仕事の能率を高めるなどとして重点的に支給しており[[精神科医]]の方面から宣伝され{{sfn|覚醒剤中毒|1956年|pp=13-18}}闘機パイロットにはナチス・ドイツより「Fliegerschokolade」兵士や、軍需工場情報を元工員能率向上として生産された「ヒロポン入りチョコレート」が、疲労回復目半強制で支給さに用いらている<ref name="風祭">『50年前{{Cite book|和書|author=風祭元|authorlink=風祭元|title=日本空軍が創った機能性食品』岩垂荘二 光琳社 1992年 P.16</ref><ref>西川伸一『[http://hdl.handle.net/10291/19952 戦後直後近代精神科薬物療法史|chapter=第10章:向精神薬覚せい長期大量多蔓延から覚せい剤取締併用療制定に至る政策形成過程の実証研究]』(2018年10月31日、明治大学社会科学研究所紀要57巻)p.と副作用|publisher=アークメディア|date=2008|isbn=978-4-87583-121-1|pages=74-75}}</ref>。また「大空のサムライ」[[坂井三郎]]、兵役に味を占める者ラバウルで連日激しい空中戦を戦っ際に、疲労回復のブドウ糖と一緒にヒロポンを注射したと戦後に軍医に明かされたと証言している<ref>『零戦の真実』坂井三郎 講談社 1992{{sfn|覚醒剤中毒|1956 P.235</ref>|pp=13-18}}
 
「パイロットの塩」などと呼ばれるほど、塩なみのパイロットの必需品として使用していた[[ドイツ空軍 (国防軍)|ドイツ空軍]]<ref>{{Cite journal|author=EMCDDA |title=Methamphetamine
薬学の専門家からは、メタンフェタミン自体が鎮咳剤[[エフェドリン]]の[[誘導体]]として開発された経緯もあり、初めは咳止め効果を期待していたが、覺醒効果の方が顕著だったために、主に眠気解消剤として夜間作業に関わる兵士用に応用されていたという指摘もある<ref>『薬物乱用防止の知識とその教育(第二章 薬物乱用の歴史)』山本章 薬事日報社 2000年 P.10</ref>。その例として、夜間戦闘機[[月光 (航空機)|月光]]搭乗員として6機もの[[B-29 (航空機)|B-29]]を撃墜した[[大日本帝国海軍|旧帝国海軍]]のエース[[海軍少尉|少尉]]・[[黒鳥四朗]]と[[准士官|飛行兵曹長]]・[[倉本十三]]のペアが、夜間視力が向上するとの事で、ナチス・ドイツより輸入された「暗視ホルモン」という名前のメタンフェタミンを注射され、戦後その副作用に苦しめられたのが有名である<ref>渡辺洋二『重い飛行機雲 太平洋戦争日本空軍秘話』(文春文庫、1999年) ISBN 4-16-724908-1 四十五年目の真実 p9—35 〔初出:文林堂『航空ファン』1996年1月号〕</ref>。
A European Union perspective in the global context |formt=PDF |publisher=European Monitoring Centre for Drugs and Drug Addiction|date=2009年}}</ref>にならって、日本軍においても航空機パイロットに対しても支給され、戦闘機パイロットにはナチス・ドイツよりの「Fliegerschokolade」の情報を元にして生産された「ヒロポン入りチョコレート」が、疲労回復目的で支給されている<ref>『50年前日本空軍が創った機能性食品』岩垂荘二 光琳社 1992年 P.16</ref><ref>西川伸一『[http://hdl.handle.net/10291/19952 戦後直後の覚せい剤蔓延から覚せい剤取締法制定に至る政策形成過程の実証研究]』(2018年10月31日、明治大学社会科学研究所紀要57巻)p.4</ref>。また「大空のサムライ」[[坂井三郎]]中尉もラバウルで連日激しい空中戦を戦っていた際に、疲労回復のブドウ糖と一緒にヒロポンを注射したと戦後に軍医に明かされたと証言している<ref>『零戦の真実』坂井三郎 講談社 1992年 P.235</ref>。
 
薬学の専門家からは、メタンフェタミン自体が鎮咳剤[[エフェドリン]]の[[誘導体]]として開発された経緯もあり、初めは咳止め効果を期待していたが、覺醒効果の方が顕著だったために、主に眠気解消剤として夜間作業に関わる兵士用に応用されていたという指摘もある<ref>『薬物乱用防止の知識とその教育(第二章 薬物乱用の歴史)』山本章 薬事日報社 2000年 P.10</ref>。その例として、夜間戦闘機[[月光 (航空機)|月光]]搭乗員として6機もの[[B-29 (航空機)|B-29]]を撃墜した[[大日本帝国海軍|旧帝国海軍]]のエース[[海軍少尉|少尉]]・[[黒鳥四朗]]と[[准士官|飛行兵曹長]]・[[倉本十三]]のペアが、夜間視力が向上するとの事で、ナチス・ドイツより輸入された「暗視ホルモン」という名前のメタンフェタミンを注射され、戦後その副作用に苦しめられたのが有名であとされる<ref>渡辺洋二『重い飛行機雲 太平洋戦争日本空軍秘話』(文春文庫、1999年) ISBN 4-16-724908-1 四十五年目の真実 p9—35 〔初出:文林堂『航空ファン』1996年1月号〕</ref>。ただし、戦後に[[GHQ]]に接収された[[海軍航空技術廠]]の資料によれば、「暗視ホルモン」の成分は、牛や豚の[[脳下垂体]]から抽出された[[メラノフォーレンホルモン]]とされ、ナチス・ドイツからの輸入品ではなく日本国内で製造され、[[台湾沖航空戦]]で既に使用されており、副作用等の毒性はないものである<ref>神野正美『台湾沖航空戦―T攻撃部隊 陸海軍雷撃隊の死闘』光人社NF文庫、2017年、210頁</ref>。
しかし、戦時中の覚醒剤の服用方法は、戦後の参議院の予算委員会の質疑において厚生省の政府委員によれば「大体、戦争中に陸軍・海軍で使っておりましたのは、全て錠剤でございまして、飛行機乗りとか、或いは軍需工場、軍の工廠等におきまして工員に飲ませておりましたもの、或いは兵隊に飲ましておりましたものはすべて錠剤でございました、今日問題になっておりますような注射薬は殆ど当時なかったと私は記憶しております。」との答弁通り、ほぼ服用であり、効果の強い注射による投与は例外であったとしている<ref>第7回参議院予算委員会議事録10号 1949年11月30日 重松一郎政府委員答弁</ref>。また、よく言われる{{誰によって|date=2019-12}}特攻隊員の恐怖心を失わせるために投与されたという話については、専門家より史実とは異なるとの指摘もある<ref>[http://www.geocities.co.jp/Technopolis/9073/zinkotuhp/arcive/2007yoshida.htm 「医学史から見た戦争と軍隊」吉田裕]{{リンク切れ|date=2019-12}}</ref>。{{要出典|また、元特攻隊員などの証言でもほとんど見られない。|date=2019-12}}
 
しかし、戦時中の覚醒剤の服用方法は、戦後の参議院の予算委員会の質疑において厚生省の政府委員によれば「大体、戦争中に陸軍・海軍で使っておりましたのは、全て錠剤でございまして、飛行機乗りとか、或いは軍需工場、軍の工廠等におきまして工員に飲ませておりましたもの、或いは兵隊に飲ましておりましたものはすべて錠剤でございました、今日問題になっておりますような注射薬は殆ど当時なかったと私は記憶しております。」との答弁通り、ほぼ服用であり、効果の強い注射による投与は例外であったとしている<ref>第7回参議院予算委員会議事録10号 1949年11月30日 重松一郎政府委員答弁</ref>。また、よく言われる{{誰しかしm若年者よっ市販の安い注射剤が蔓延し|date=2019-12}}特攻隊員の恐怖心を失わせるために投与されたという話については、専門家より史実とは異なるとの指摘もある<ref>[http://www.geocities.co.jp/Technopolis/9073/zinkotuhp/arcive/2007yoshida.htm 「医学史から見た戦争と軍隊」吉田裕]{{リンク切れ|datename=2019-12}}<"覚醒剤中毒80"/ref>。{{要出典|また、元特攻隊員などの証言でもほとんど見られない。|date=2019-12}}
 
また、特攻隊員の恐怖心を失わせるために投与されたと主張する者もいるが<ref>[https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/web/17/040500003/041100003/ 「Webナショジオ 研究室に行ってみた。国立精神・神経医療研究センター 薬物依存症 松本俊彦 第3回 覚せい剤の乱用文化は日本起源だった」松本俊彦]</ref>、歴史学者[[吉田裕 (歴史学者)|吉田裕]]からは、「よく戦後の特攻隊に関する語りの中で、出撃の前に覚醒剤を打って死への恐怖感を和らげて出撃させたんだという語り・証言がたくさんあるんですけれども、これは正確ではないようです。覚醒剤を使っていたのは事実のようです。日本のパイロットは非常に酷使されていて(中略)疲労回復とか夜間の視力の増強ということで覚醒剤を大量に使っていて」などと史実とは異なるとの指摘があっている<ref>[https://jinkotsu731.web.fc2.com/zinkotuhp/arcive/2007yoshida.htm 「医学史から見た戦争と軍隊」吉田裕]</ref>。陸軍は、覚醒剤ではなく、パイロットに能力を最大限発揮させる栄養食品を作る事を目的に莫大な陸軍予算を投じおり、主に[[陸軍航空技術研究所|陸軍第七技術研究所]]を中心として開発されていた。当時の[[東條英機]]首相の号令で開発が進められ、首相以下 [[近衛文麿]]、[[広田弘毅]]、[[若槻禮次郎]]といった元老らなど、軍や政治の中枢を首相官邸に集めて、航空糧食の講演会が開かれており、当時の政府や軍の期待度の大きさが覗える<ref>『50年前日本空軍が創った機能性食品』岩垂荘二 光琳社 1992年 P.13</ref>。[[サイパンの戦い]]に敗北し東條が失脚した後は、戦局悪化により航空特攻の準備が加速するとともに、栄養食品の開発も加速し、東京大学などの協力も受けて「航空ビタミン食」「腸内ガス無発生食品」「航空元気酒」「疲労回復酒」「防吐ドロップ」「早急出動食」「無火無煙煙草」など多数の栄養食品や[[健康食品|機能付食品]]や嗜好品が作られ、特攻隊員など前線のパイロットに支給されていった<ref>『50年前日本空軍が創った機能性食品』岩垂荘二 光琳社 1992年 P.71 - P.130</ref>。
 
特攻隊員が覚醒剤を使用していたという話が蔓延した経緯として、戦後の[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]による日本軍の貯蔵医薬品の開放指令により<ref>{{Cite web |url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9885453 |title=SCAPIN-389: CUSTODY AND DISTRIBUTION OF JAPANESE MILITARY MEDICINAL NARCOTIC STOCKS 1945/12/04 |publisher=国立国会図書館 |accessdate=2020-02-06}}</ref>、旧日本軍の貯蔵医薬品と一緒に大量に開放された覚醒剤は、一般社会へ爆発的に広まり中毒者が激増し社会問題化したが、他の多くの社会問題と同様に覚醒剤も暗黒時代であった戦時中の象徴であったとする主張がなされるようになり、事実とは異なる証言や回顧が巷に氾濫する事となった。その一例として、自らも薬物中毒で苦しんだ経験を持つフランス文学者[[平野威馬雄]]が、戦時中に軍需関係の会社の従業員していた人物より戦後の1949年に聞いた「頭がよくなる薬が手に入った。これは部外秘というやつで、陸海軍の特攻隊の青年だけに飲ませる“はりきり”薬で、ヒロポンという名前だ。長くない命に最後まで緊張した精神を維持させる薬だ。」という話を紹介しているが、一般に流通していたヒロポンを「部外秘」としたり、特攻隊の青年だけに飲ませていたといったような事実に反した話が広まっていたことがうかがえる<ref>{{Cite journal |和書 |author=[[平野威馬雄]] |title=ヒロポン禍 戦後作家の生態 |year=1949 |journal=世界評論 |publisher=世界評論社 |page=68}}</ref>。これは軍部を非人道的機関と位置づけ、覚醒剤禍の元凶として批判すべき対象とした際に、特攻隊員がその象徴として利用されていたことの例の一つであったとされている<ref>佐藤哲彦『覚醒剤の社会史 ドラッグ・ディスコース・統治技術』東信堂、2006年、251頁。</ref>。
 
==== 戦後 ====
[[ファイル:Mainichi Graphic clipping (24 November 1954 issue).jpg|thumb|200px|覚醒剤密造・販売の摘発(『[[毎日グラフ]]』1954年11月24日号より)]]
覚醒剤は他の薬品同様に本土決戦のために大量に軍が備蓄していたが、日本が敗戦すると日本に進駐してきたGHQ([[連合国軍最高司令官総司令部]])に接収された。その後、1945年12月にGHQによる指示(SCAPIN-389)で<ref>[http{{Cite web |url=https://jaliidl.lawndl.nagoya-u.acgo.jp/scapinsinfo:ndljp/pid/9885453 「SCAPINs(GHQ対日指令)年表」|title=SCAPIN-389: CUSTODY AND DISTRIBUTION OF JAPANESE MILITARY MEDICINAL NARCOTIC STOCKS. 2016年3月1日閲覧]{{リンク切れ|url=http: 1945/12/jalii.law.nagoya-u.ac.jp/scapins/04 |datepublisher=May国立国会図書館 2018|accessdate=2020-02-06}}</ref>、GHQが接収していた大量の医薬品をまずは医療機関、翌年には一般国民に大量放出(当時の時価で1億円)した際に、ヒロポンも同時に放出され、大量に巷に流通し出した<ref>西川隆『「くすり」から見た日本 昭和20年代の原風景と今日』薬事日報社、2004年、62頁。</ref>。
 
戦後間もない[[闇市]]では[[焼酎#カストリ|カストリ焼酎]]一杯より安い値段で1回分のアンプルが入手できたため、芸人や作家やバンドマンといった寸暇を惜しんで働く者たちから、興味半分で始めた若者まで瞬く間に広がり、乱用者が増加していった。またヒロポンは、薬局においてアンプルや錠剤と言う形で販売されており、1943年から1950年までは、印鑑さえ持っていけば誰でも購入できたため、タクシーの運転手や夜間勤務の工場作業員など、長時間労働が要求される職種の人々に好んで利用され、その疲労回復力から大変重宝された。しかし、即効性の高いアンプルは常に闇に流れ品不足が常態化しており、1949年の新聞で、薬局では錠剤しか入手できなかったと報道されている。この結果、日本ではメタンフェタミンが社会に蔓延し、多数の依存症患者を生み出す事となった。