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現西条市立大町小学校、西条中学校(現:[[愛媛県立西条高等学校]])を経て、[[1938年]]12月[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]([[海軍兵学校卒業生一覧 (日本)#70期|70期]])へ入校。同期には[[菅野直]]、[[中津留達雄]]、[[高井太郎]]([[イースタン・カーライナー]]社長)、[[後宮俊夫]]([[日本基督教団]]総会議長)がいる。
 
行男は勉強が出来でき、文才があった。小学生のころから、級友がわからないところがあると関は親切に教えてくれたので、特に女生徒から「ゆうちゃん」と呼ばれて大変人気があった。しかし、男の友達が困っているときは率先して助けてくれるような男気も持ち合わせていた。中学生時代は[[テニス]]に熱中し、級友の父親が経営するスポーツ用具店によく立ち寄ってテニス用具の品定めをしていたという。関は非がり勉タイプで、テニスに熱中してさして勉強をしなくとも、150名の全生徒の中で常にトップクラスの成績であり、数学でも賞を貰ったりしていた。明朗活発な性格ながら、年をとるにつれて寡黙になっていった<ref>{{Harvnb|豊田穣|1980|loc=電子版, 位置No.136}}</ref>。父は、行男が高等師範学校に進んで教師になり平穏に暮らすことを望んでいたが、行男は一高がだめならば、同じ程度の難関であった[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]に行くつもりであった。父は「今の戦争が長引けばそれだけ命を危険にさらすことになるぞ。」と諭したが、「ぼくは教師など性に合わん。この非常時に事なかれ主義のなまぬるい生き方なんぞ我慢できんよ。」と反論した。父は「あいつは、わしらには出来過ぎとる。」と、サカエにぼやいたという。
父は行男が海軍兵学校を卒業する前に死去した<ref name="b">[[#ウォーナー上]]p.93</ref>。その後、母・サカエは経営していた古物商を廃業し、[[草餅]]の行商人へ転じている<ref name="a">[[関行男#ウォーナー上|#ウォーナー上p]].94</ref>。海軍兵学校へ進学する行男の希望で、母方の親族に当たる繁子が関家の[[養子|養女]]となった<ref>[[#ウォーナー上]]p.90</ref>。