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[[嘉元]]元年([[1303年]])あるいは[[永仁]]6年([[1298年]])、[[上野国]]の[[新田氏]]の一族である[[山名政氏]]の子として誕生。
 
[[今川貞世]]の著した『[[難太平記]]』によれば民[[百姓]]の暮らしをしていたとされるが、[[山名氏]]は[[鎌倉幕府]]成立時からの御家人であり、かつ[[上杉氏]]と姻戚関係を結んでいることから低い身分とは考えがたく、この記述は貞世がライバル関係にある山名氏を貶めたものと考えられる。その一方で、鎌倉幕府において活躍していた山名氏は庶流である山名重家(山名義範の子)や山名朝家(山名重国の子)の子孫であり、朝家の兄・山名重村の子孫である嫡流の活動は確認できない(重村は時氏の高祖父にあたる)とする指摘もあり<ref>{{Cite book|和書|author=市川裕士|chapter=山陰山名氏の動向と研究の成果|series=シリーズ・中世西国武士の研究 第五巻|title=山陰山名氏|publsiherpublisher=戎光祥出版|year=2018|isbn=978-4-86403-293-3|pages=8-9}}</ref>、この指摘が正しければ貞世の記述が必ずしも山名氏(嫡流家)を貶めたものとは言えない、ということになる。なお、重家や朝家の子孫は鎌倉時代末期の政争や幕府の滅亡に伴って没落しており、時氏こそが山名氏の嫡流の地位を回復させた人物と言うことになる。
 
[[足利氏]]の姻族である上杉氏との縁戚関係などから、新田一族の惣領である[[新田義貞]]には従わずに、[[足利尊氏]]の[[後醍醐天皇]]からの離反、[[湊川の戦い]]などに参加、その功で[[延元]]2年/[[建武 (日本)|建武]]4年([[1337年]])には[[名和氏]]の本拠である伯耆守護に任ぜられる。その後も[[南朝 (日本)|南朝]]との戦いで[[楠木正行]]、[[名和氏]]の掃討などを行い、[[興国]]2年/[[暦応]]4年([[1341年]])の[[塩冶高貞]]討伐で功績を挙げ、その功で丹後・出雲・隠岐守護となり、[[正平 (日本)|正平]]2年/[[貞和]]3年([[1347年]])に[[楠木正行]]と戦い敗北したが、翌年に若狭守護となる。
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== 外部リンク ==
* [http://www.toritabi.net/kurayosi/yamana.html 鳥取観光ナビ・山名寺 倉吉]
* [http://www.toritabi.net/kurayosi/yamana/05syasin.html  鳥取観光ナビ・山名時氏墓 山名寺]
 
{{先代次代|[[山名氏]]当主|?- 1371年|[[山名政氏]]|[[山名師義]]}}
 
{{デフォルトソート:やまな ときうし}}
[[categoryCategory:守護大名]]
[[Category:鎌倉幕府御家人]]
[[Category:南北朝時代の武将]]