「東ローマ帝国」の版間の差分

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=== 政治体制 ===
東ローマ帝国は、古代ローマ帝国の帝政後期以降の[[皇帝#ローマ帝国|皇帝]](ドミヌス)による専制君主制([[ドミナートゥス]])を受け継いだ{{Refnest|<ref group="注"|<ref>[[#レミィ2010|レミィ2010]]、pp.151-153の訳者あとがきによると、「ローマの帝政は、元老院というオブラートに包まれていたにせよ、その始まりから皇帝による軍事独裁だった」とされ、「著者は、ディオクレティアヌスは最後の「ローマ皇帝」だった、と述べている」とした上で、現在の歴史学では「「専制君主政」という言葉を用いる専門のローマ史研究者はほとんどいないだろう」し、「「専制君主政」という言い方は完全に廃れてしまった」と記載している。</ref>。}}。 7世紀以降の皇帝([[バシレウス]]/ヴァシレフス)は「神の恩寵によって」帝位に就いた「地上における神の代理人」「諸王の王」とされ<ref name="井上2009pp170-176">[[#井上2009|井上2009]]、pp.170-176。</ref>、政治・軍事・宗教などに対して強大な権限を持ち、完成された官僚制度によって統治が行われていた。課税のための台帳が作られるなど、首都コンスタンティノポリスに帝国全土から税が集まってくる仕組みも整えられていた。
 
しかし、皇帝の地位自体は不安定<ref group="注">帝位継承法のようなものはなく、「[[元老院 (ローマ)|元老院]]・市民・軍の推戴」が皇帝即位の条件だったため。</ref>で、たびたび[[クーデター]]が起きた。それは時として国政の混乱を招いたが、一方ではそれが農民出身の皇帝が出現するような<ref group="注">6世紀の[[ユスティニアヌス1世]]や9世紀の[[バシレイオス1世]]など。</ref>、活力ある社会を産むことになった。このような社会の流動性は、11世紀以降の大貴族の力の強まりとともに低くなっていき、[[アレクシオス1世コムネノス]]以降は皇帝は大貴族連合の長という立場となったため、皇帝の権限も相対的に低下していった。