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== 沿革 ==
[[明治]]初期の[[自由民権運動]]、国会開設運動を経て、[[明治天皇]]による[[詔勅]]「[[国会開設の詔]]」が1881年(明治14年)10月12日に表明された。1889年(明治22年)2月11日の[[大日本帝国憲法]]及び衆議院議員選挙法(明治22年2月11日法律3号)の[[公布]]を以て、翌年の1890年(明治23年)に[[貴族院 (日本)|貴族院]]の互選・勅第一回[[第1回衆議院議員総選挙]](同年7月)が実施され、同年11月に貴族院と[[衆議院]]による[[二院制]]の第一回帝国議会が成立した。
 
初期議会においては政府の[[超然主義]]と衆議院が対立していたが、[[日清戦争]]後には政府と両院の提携が行われるようになり、[[大正デモクラシー]]により[[政党政治]]が行われるようになると衆議院の立場が強まるが、軍部などの勢力の台頭で[[議院内閣制]]は確立できず、1932年([[昭和]]7年)に起きた軍部のクーデター未遂である[[五・一五事件]]で地位が低下する。特に、1940年(昭和15年)に全政党が解散して[[大政翼賛会]]が成立されると、議会は政府・軍部の提出を追認するだけの[[翼賛議会]]と化していった<ref group="注釈">もっとも、政府や軍部側も国民や敵国に対して「挙国一致」の体裁をみせなければならなかったために、議員たちにも政府役職の一部を配分し、戦争遂行に直接関係しない分野では議会の立場に配慮するなどの一定の譲歩がなされたために、その利益を受けた議会指導者や主流派は積極的に翼賛議会確立に努め、政府や軍部の方針に批判的な一部議員は議会内部からも圧力を受けた。</ref>。