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[[関西高等学校|関西中学校]]・[[第六高等学校 (旧制)|第六高等学校]]・[[東京大学|東京帝国大学]][[東京大学大学院法学政治学研究科・法学部|法科大学]]を経て、[[1911年]]に[[高等文官試験]]に合格して同年の大学卒業とともに[[内務省 (日本)|内務省]]に入省する。[[神社局]]長を経て[[1926年]]に[[静岡県知事一覧|静岡県知事]]に任ぜられる<ref name=re569/>。[[1927年]]、[[立憲民政党]]系とみなされて、[[立憲政友会]]政権が行った地方官人事で[[鹿児島県庁|鹿児島県]]知事に転任。[[1928年]]1月10日に休職が命じられた<ref>『官報』第308号、昭和3年1月11日。</ref>。[[1929年]]に[[福岡県知事一覧|福岡県知事]]に任じられる。[[1932年]]の[[国維会]]結成に参加して「[[新官僚]]」の1人として認知され、同年[[五・一五事件]]直後に[[警保局|警保局長]]に任じられ、[[共産主義]]弾圧と[[日本主義]]普及を推進、「邦人一如」を合言葉に[[日本文化連盟]]を結成した。[[1933年]]の[[ゴーストップ事件]]では[[軍部]]に対抗し一歩も譲らなかった。
 
退官後は[[貴族院 (日本)|貴族院]][[勅議員]]に任じられたが、同郷で親交の厚い[[宇垣一成]]を[[内閣総理大臣]]に擁立しようとして軍部に阻まれた。
 
戦後は[[1947年]]に中央警察学校(現在の[[警察大学校]])校長を2年間務めたあと官職から離れるが、以降は日本の貿易振興に務めることになり、[[日本港湾協会]]会長や[[社団法人]][[世界貿易センター]]会長などを歴任する。また[[1954年]]より[[競輪]]を統括する当時の自転車振興会連合会会長に就任し、[[1957年]]に改組された[[特殊法人]][[JKA|日本自転車振興会]]の初代会長として競輪の運営確立および中央集権化にあたった。
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==脚注==
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== 参考文献 ==
*小田部雄二「松本学/松本学関係文書」『国史大辞典 13』、吉川弘文館、1992年、 ISBN 978-4-642-00513-5
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