「未回収のイタリア」の版間の差分

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こうしたなか、耽美主義的な文学者[[ガブリエーレ・ダンヌンツィオ]]は、1919年9月に決起して真紅の[[フィアット501]]で連合国軍共同管理下にあったフィウーメに向かった<ref name=tsuruoka228>[[#鶴岡|鶴岡(2012)pp.228-239]]</ref>。この決起には、ダンヌンツィオの行く先々で大戦の復員兵などが義勇兵として加わり、彼を司令官とするフィウーメ独立政府([[カルナーロ=イタリア執政府]])が成立した<ref name=yamauchi342/><ref name=tsuruoka228/>。ダンヌンツィオのもとには、サンディカリスト、[[アナーキズム|アナーキスト]]、のちに[[ファシズム]]につながる人びとなど多種多様な人びとが集まった<ref name=tsuruoka228/>。
 
[[1920年]]11月の[[ラパッロ条約 (1920年)|ラパッロ条約]]などによって、ようやく南ティロル地方やトレンティーノ地方、トリエステを含む[[イストリア半島|イストリア]]地方、[[ダルマチア]]地方に属する一部の島がイタリア領となった。しかし、フィウーメについては新しく建国された[[ユーゴスラヴィア]](現[[スロベニア]]、[[クロアチア]])の[[領土]]となることが決まった。一方、フィウーメ市民は当初、ダンヌンツィオを熱狂的に支持し、協力を惜しまなかった。しかし、やがて[[食糧]]の[[配給 (物資)|配給]]もままならない状態となってダンヌンツィオに対する不満が高まり、さらにダンヌンツィオはラパッロ条約の撤回を求めたためイタリア国軍と交戦状態となったため、フィウーメ市民からの支持を完全に失った<ref name=yamauchi342/><ref name=tsuruoka228/>。この年の12月、ダンヌンツィオは降伏し、約15か月間つづいた占領状態は終わった<ref name=yamauchi342/><ref name=tsuruoka228/>。
 
現在、[[イタリア|イタリア共和国]][[ボルツァーノ自治県]]となっている南ティロルについては、すでに当時からドイツ系住民が長年にわたり居住して[[チロル州|ティロル州]]の一部として定着していたために、逆にオーストリア世論が「固有の領土を不当に奪われた」と反発してその奪回を求めた。このため、イタリアはあらたにオーストリアやユーゴスラヴィアとの新たな国境紛争をかかえることとなった。