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おおよそ[[紀元前201年]]から[[紀元前27年]]までの間には、法が時代の必要に合わせてより柔軟に発展していった。[[第二次ポエニ戦争]]で勝利したローマは、その勢力の拡大と共に外国人に関する法律問題に対処する必要が生じたが、古い形式的な「市民法」はこれに対処することができなかった。十二表法で定められた民事訴訟手続は、ローマ市民のみに適用され、確定文言によって訴権を定める厳格な形式性・保守性を特徴とする儀礼的なもので、一度間違えるとやり直しがきかず、原告が敗訴するという硬直性を有していた。
 
このような必要に応じて{{仮リンク|法務官法|en|praetor's edict|label='''法務官法'''}}<ref>{{lang-la-short|ius praetorium}}<span style="speak:none">(ユス・プラエトリウム)</span></ref>ないし'''名誉法'''<ref>[[プラエトル|法務官]]がこの新たな法体系創造の中心となったことと、法務官の地位が名誉職であったことにより、このように呼ばれる。</ref>が登場すると、古い形式主義を修正する'''[[万民法]]'''<ref>{{lang-la-short|ius gentium}}<span style="speak:none">(ユス・ゲンティウム)</span></ref>という新しいより柔軟な原理が採用された。新たな必要に法を適応させてゆくという方法論は、法律実務や公職者、そして特に法務官にはすっかり定着した。法務官は立法者ではなく、告示<ref>{{lang-la-short|magistratuum edicta}}</ref>を発する場合にも、技術的には新しい法を創造したわけではなかった。しかし、実際には、法務官が判定した結果は法律上保護され(訴権の付与)、事実上新しい法規制の源となることもしばしばあった。後任の法務官は前任の法務官の告示に拘束されなかったが、前任者の告示が有用なものであることが明らかになれば、後任者もその告示を援用して判定を示していた。このようにして永続的な内容が創造され、告示から告示へと受け継がれていった<ref>{{lang-la-short|edictum traslatitium}}</ref>。
 
こうして、時代の流れを超えて、法務官法という新しい体系が登場し、市民法と併存しながら、これを補充し、修正していたのである。実際にも、有名なローマ法学者[[アエミリウス・パーピニアーヌス]]は、法務官法を次のように定義した。「法務官法は、市民法を公共の利益のために補充し、あるいは修正するために、法務官によって導入された法である」<ref>{{lang-la-short|Ius praetorium est quod praetores introduxerunt adiuvandi vel supplendi vel corrigendi iuris civilis gratia propter utilitatem publicam.}}</ref>。