「阿部定吉」の版間の差分
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[[永正]]2年([[1505年]])、[[阿部定時]]の子として誕生。
[[天文 (元号)|天文]]4年([[1535年]])、主君・[[松平清康]]が[[尾張国]][[那古野城|那古野城主]]・[[織田信秀]]と対決すべく尾張への侵攻を開始したとき、突如として陣中に定吉謀反の噂が流れた。これは信秀の謀略であったともいわれるが、清康はあまり定吉を信頼していなかったらしく、この噂を信じ始めた。一方、定吉は覚悟を決め、子・[[阿部正豊|正豊]]を呼んで「もし自分が討たれるようなことがあったら、無実を証明してほしい」と潔白を示す書状を託した。その数日後、尾張滞陣中に清康の馬が本陣で暴れ出した騒ぎがあり、これを父が討たれたと勘違いした正豊は、清康を唐竹割りに両断し殺害。正豊自身も
定吉は 清康の死による安祥松平
その後、広忠の後見役で、康孝の遺領を掠め取った信孝を排除すべく広忠に決断を迫り、信孝が駿河の今川義元の許に出向いていた隙に信孝の三木城を攻め落として追放した。
天文18年([[1549年]])に死去。
ただし、定吉側室星合氏が定吉の子を身ごもったまま、定吉死後に井上氏のところへ嫁ぎ、生まれた子が[[井上清秀]]であるといわれる<ref>『[[寛政重修諸家譜]]』などより。</ref>。また、同族の[[阿部正勝]]の血統が台頭し、正勝の孫・[[阿部重次|重次]]は、[[江戸幕府]]3代[[征夷大将軍|将軍]]・[[徳川家光]]の時代に[[老中]]に就任するなど、躍進を遂げている。
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