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'''植田 孟縉'''(うえだ もうしん、[[宝暦]]7年[[12月8日 (旧暦)|12月8日]]([[1758年]][[1月17日]]) - [[天保]]14年[[12月14日 (旧暦)|12月14日]]([[1844年]][[2月2日]]))は、[[八王子千人同心]]組頭。
 
== 経歴 ==
[[宝暦]]7年(1757年)12月8日、[[熊本自庵]]の子として江戸屋敷で生まれる。19歳のとき八王子千人同心組頭[[植田元政]]の養子となる。通称は'''十兵衛'''、孟縉と号した。
 
漢学塾を開く。[[文化 (元号)|文化]]10年(1813年)、八王子千人同心千人頭[[原胤敦]]に地誌創作の幕命があると、孟縉は[[塩野適斎]]らとともに[[武蔵国]]の[[多摩郡]]、[[高麗郡]]、[[秩父郡]]の地誌編纂に従事、「[[新編武蔵風土記稿]]」の一部を完成させる。「[[新編武蔵風土記稿]]」編纂に際して、[[文政]]6年(1823年)、多摩郡を中心とした地誌「[[武蔵名勝図会]]」を著し、[[昌平黌]]の[[林述斎]]に献上した。<br>
 
[[天保]]2年(1831(1831)に八王子千人同心千人頭[[原胤禄]](原胤敦孫)に相模国津久井の地誌調査が命じられると、「[[新編相模国風土記稿]]」の編纂にも手を貸したと思われる。<br>
 
その他、「[[日光山志]]」「[[日光名勝考]]」「[[鎌倉名勝図]]」「[[浅草寺旧跡考]]」など著書多数。