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天文19年([[1550年]])に父・晴綱が戦死したため、わずか2歳で家督を継承した。天文22年([[1553年]])より[[三好長慶]]に[[京都]]を追われた13代[[征夷大将軍|将軍]]・[[足利義輝]]を父に引き続き[[朽木村|朽木谷]]に匿った。[[永禄]]9年([[1566年]])の[[浅井長政]]による[[近江国]][[高島郡 (滋賀県)|高島郡]]侵攻に際しては人質を差し出し、永禄11年([[1568年]])12月には[[浅井久政]]・長政父子と起請文を交わしたが、まもなくこれを破棄している。
 
[[元亀]]元年([[1570年]])の[[金ヶ崎の戦い|朝倉攻め]]においては[[松永久秀]]の説得を受けて[[織田信長]]の京都撤退('''朽木越え''')を助け、後に信長に仕え信長麾下として[[磯野員昌]]、その追放後は[[津田信澄]]に配されているが、[[天正]]7年([[1579年]])には代官を罷免されているので、信長からは厚遇されていなかったようである。信長の死後は[[豊臣秀吉]]に仕え、[[伊勢国|伊勢]][[安濃郡 (三重県)|安濃郡]]・高島郡内の[[蔵入地]]の代官に任ぜられ、[[小田原征伐]]にも参加、朽木谷2万文禄4年(1595年)に秀吉から高島郡92032斗を安堵されている。
 
[[天正]]18年([[1590年]])、秀吉より[[豊臣氏|豊臣姓]]を下賜された<ref>村川浩平『日本近世武家政権論』(近代文芸社、2000年、37頁)</ref>。
 
[[慶長]]5年([[1600年]])の[[関ヶ原の戦い]]では、当初は[[大谷吉継]]に従って西軍に属したものの、[[小早川秀秋]]に呼応して[[脇坂安治]]や[[小川祐忠]]、[[赤座直保]]らと共に東軍に寝返った。戦後、通款を明らかにしなかったとの理由ためより減封(92万石から9,590石に減封された」という説もあるが、前述の通り秀吉から安堵された石高とほぼ変わらないため、事前に内通しており戦後家康から領地を安堵されたと見るべきである。なお元綱は関ヶ原の戦いには参戦していなかったのではないかとする指摘もある<ref>[[白峰旬]]『関ヶ原合戦の真実―脚色された天下分け目の戦い―』(宮帯出版社、2014年、82-83頁)</ref>。
 
[[元和 (日本)|元和]]2年([[1616年]])に剃髪し、牧斎と号した。寛永9年(1632年)、朽木谷において死去。[[享年]]84。