「クラウディオ・メールロ」の版間の差分

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ブレシアに職を得てから一年もたたないうちにサン・マルコのオルガニストとなったのは、彼の技術が高く、またヴェネツィアの有力者とも懇意であったことによるのであろう。この時、彼が[[アンドレーア・ガブリエーリ]]を抑えてこの地位を勝ち得たことは、彼の技術の高さを証明している。ただし、サン・マルコには当時2つのオルガンがあり、この時メールロが任命されたのは小さい方の第2オルガンで、第1オルガンの奏者には[[アンニーバレ・パドヴァーノ]]が留まっている。
 
[[1566年]]、パドヴァーノがヴェネツィアを去ると、メールロは第1オルガン奏者に昇格し、アンドレーア・ガブリエーリが第2オルガン奏者に就任した。1560年代から70年代にかけて、メールロは全ヨーロッパで最も権威あるオルガン奏者となり、また作曲家としても北イタリアで最も力のある存在となっていた。[[トスカーナ大公]][[フランチェスコ1世・デ・メディチ|フランチェスコ・デ・メディチ]]の長年の愛人[[ビアンカ・カッペッロ]]との結婚式(1579年)には[[ヴェネツィア共和国]]の特使に任命され、またフランス王[[アンリ3世 (フランス王)|アンリ3世]]がヴェネツィアを来訪(1574年)した際には祝祭音楽を作曲している。1576年、1580年に[[フェラーラ]]を訪れている。1583年に妻バルバラを亡くす
 
[[1584年]]、メールロは突然ヴェネツィアの職を辞した。その理由は不明である。ヴェネツィアでは報酬もよく、彼の評判もすこぶる高かったし、サン・マルコ寺院はオルガニストにとってもっとも名誉ある職場の一つであった。しかし、事実として[[1584年]]12月には、[[パルマ]]の[[ファルネーゼ家]]の宮廷の支払記録に彼の名前が記されているのである。果たして、彼を獲得するためにファルネーゼ公オッターヴィオが莫大な金額を積んだのであろうか。またパルマに至る前に、[[マントヴァ]]でも職を得ていた時期があるのではないかとする説もあるが、これは今のところ証明する記録がないままである。
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唯一明らかなことは、[[1586年]]に、メールロが新任のパルマ公[[アレッサンドロ・ファルネーゼ (パルマ公)|アレッサンドロ・ファルネーゼ]]にパルマでの雇用を続けてくれるよう嘆願の手紙を記していることである。同年のオッターヴィオが亡くなった直後の記録は欠けているが、この間メールロがパルマにずっといたと考えるのが今のところ自然であろう。
 
[[1587年]]、メールロはパルマの聖堂のオルガン奏者に任命され、[[1591年]]からは{{仮リンク|ステッカータの聖母マリア教会|en|Sanctuary of Santa Maria della Steccata}}のオルガニストも兼任している。この時1593年に、メールロは聖母マリア教会のオルガン(1573年ベネデット・[[アンテニャティ]])を、ブレシアの偉大なオルガン製作家一族の末裔であったコスタンツォ・アンテニャティに命じてオルガンに改変を加えたことが知られている。このことは、メールロの音楽を考える上で重要な出来事である。おそらく、メールロはヴェネツィアで得た経験をもとに、彼の新しい作曲法を実現するためにオルガンの改変を求めたのだろうと考えられるからである。
 
メールロは晩年、ヴェネツィアやローマを幾度か訪れ、2冊の「オルガンのためのトッカータ」(''Toccate per organo'')を出版している。