「小倉処平」の版間の差分

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| 藩 = [[飫肥藩]]
| 氏族 = 長倉氏→小倉(小野)氏
| 父母 = 長倉喜太郎、''小倉(小野)九十九''
| 兄弟 = [[長倉訒]]
| 妻 = 小倉(小野)氏
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[[西南戦争]]では[[西郷隆盛]]率いる[[私学校]]西郷軍側である党薩諸隊の一つ飫肥隊を統率し、西郷軍奇兵隊監軍となる。[[和田越え|和田越]]の戦いで[[戦傷]]し、[[可愛岳]]近くで自害。
== 生涯 ==
飫肥藩士である長倉喜太郎の次男かつ長倉訒の弟として出生。のち小倉(小野)九十九の婿養子となる。なお『西南記伝』では養子先の小倉氏は初め「小野氏」を称し、処平の代で「小倉氏」と称したとしている。
 
平部右金吾より[[槍術]]を学ぶ。また[[安井息軒]]のいる[[江戸]]へ遊学し、する。[[戊辰戦争]]では京都と[[摂津国]]間を奔走した。
=== 明治時代 ===
[[明治維新]]後に[[大学南校]]に入り、のちに大学権大丞となり、明治4年([[1871年]])から明治6年([[1873年]])まで[[岩倉使節団]]の一員として渡航して[[イギリス]]や[[フランス]]へ留学する。[[明治六年政変]]で西郷隆盛らが下野すると、処平も飫肥へ下野する。