削除された内容 追加された内容
10行目:
 
=== 旗本寄合席時代 ===
分家で木脇領主でもある旗本寄合席秋月家当主の秋月種記が危篤、死去したために、文久3年[[6月15日 (旧暦)|6月15日]]([[1863年]])に旗本寄合席秋月家の[[家督]]を相続することとなり、同年[[12月12日 (旧暦)|12月12日]]([[1864年]][[1月21日]])に幕府より相続が認可される。なお多門櫓文書の明細短冊では「年 二十一」とされる。ちなみに一時[[松代藩]]主[[真田幸教]]の養子候補に上った次兄の種樹は同年[[6月26日 (旧暦)|6月26日]](1863年)に正式に高鍋藩の嗣子となっている。
 
実父の種任や養祖父の[[秋月種博|種博]]は[[老中]][[脇坂安宅]]の姻戚であり、養父の種記は[[諸大夫]]任官前に死去していたとはいえ中奥小姓を勤め、次兄の種樹は高鍋藩嗣子や[[若年寄]]格[[学問所奉行]]、[[徳川家茂]]の侍読となったが、種事自体は旗本として目立った出世をすることがなかった。また、明治時代まで[[武鑑]]の高鍋藩主秋月家の系図においても、藩主の種殷や藩主嗣子の種樹と違って種事が掲載されていない。