「統葉護可汗」の版間の差分

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[[アルメニア]]の歴史家{{仮リンク|セベオス|en|Sebeos}}の伝えるところによれば、[[サーサーン朝]]が[[東ローマ帝国]]と戦争になると[[619年]]に30年ぶりに[[西突厥]]が[[大ホラサーン]]([[:en:Greater Khorasan|en]])の[[トゥース]]に攻めこみ{{仮リンク|第二次ペルソ・テュルク戦争|en|Second Perso-Turkic War}}がおこった。初戦で撃退された西突厥軍は援軍を要請し、可汗は30万の援軍を送った。Datoyan王子の守るトゥース要塞を落し、[[エスファハーン]]まで進軍して撤退を開始した。{{仮リンク|バグラトゥニー朝|en|Bagratuni Dynasty}}のSmbatは、東ペルシアで兵を集め、撤退途中の西突厥軍の指揮官を殺した。その結果、西突厥軍の統制が失われ、バグラトゥニー軍からさらに大損害を被った。
 
アルメニアの歴史家{{仮リンク|モヴセス・カガンカトヴァツィ|en|Movses Kaghankatvatsi}}によれば、{{仮リンク|ビザンチン[[東ローマ・サーサーン戦争 (602年 - 628年)|en|Byzantine–Sassanid War of 602–628|label=ビザンチン・サーサーン戦争}}]]への介入戦争である{{仮リンク|[[第三次ペルソ・テュルク戦争|en|Third]] Perso-Turkic War}}(([[627年]] - [[629年]])が)において[[南コーカサス]]の[[デルベント]]を包囲した。次いで東ローマ帝国と[[ハザール]]の連合軍は[[トビリシ]]を陥落させた。裏で行なわれていた[[ニネヴェの戦い (627年)]]が中東の軍事バランスを変えたことによって[[イスラーム教徒のペルシア征服]] ([[633年]] - [[644年]])が成功した。
 
== 子 ==