「森鷗外」の版間の差分

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ミュンヘン([[1886年]][[3月8日]]–翌年[[4月15日]])では、[[ミュンヘン大学]]の[[マックス・フォン・ペッテンコーファー|ペッテンコーファー]]に師事した。研究のかたわら、邦人の少なかったドレスデンと異なり、同世代の[[原田直次郎]]や[[近衛篤麿]]など名士の子息と交際し、よく観劇していた。
 
次のベルリン([[1887年]][[4月16日]]–翌年[[7月5日]])でも早速、[[北里柴三郎]]とともに[[ロベルト・コッホ|コッホ]]に会いに行っており、[[細菌学]]の入門講座を経てコッホの衛生試験所に入った<ref group="注">近代細菌学の開祖とされるコッホは、[[ミュンヘン大学]]の恩師[[マックス・フォン・ペッテンコーファー|ペッテンコーファー]]と対立していたが、北里柴三郎の勧めもあり、{{JIS2004フォント|&#40407;}}外はコッホにも師事した。</ref>。当時の居室は現在森鷗外記念館として公開されている
 
9月下旬、[[カールスルーエ]]で開催される第4回[[赤十字社|赤十字]]国際会議の日本代表(首席)としてドイツを訪れていた石黒忠悳に随行し、通訳官として同会議に出席。9月26・27日に発言し、とりわけ最終日の27日は「ブラボー」と叫ぶ人が出るなど大きな反響があった<ref group="注">9月26日は、[[オランダ]]代表の「欧州外の戦争で傷病者を救助すべきか否か」という問題提起に、「眼中唯〃欧州人の植民地あるを見て発したる倉卒の問いなり」と発言。翌27日の最終日は、石黒忠悳の許可を得て「アジア外の諸邦に戦いあるときは、日本諸社は救助に力を尽くすこと必然ならんと思考す」と演説し、喝采を博した。ちなみに、その演説主旨は、4月18日に同期の[[谷口謙]]と共に[[乃木希典]]、[[川上操六]]の両少将を訪問した時、どちらかの少将の発言内容とほぼ同じである。もっとも当時、あまり知られていない極東の小国([[モンゴロイド]]で非[[キリスト教]]徒の国)の通訳官が、国際会議で発言すること自体、相当勇気が必要であろう。[[#山崎2007|山{{JIS2004フォント|&#64017;}}(2007)]]、66–67, 70–73頁。</ref>。