「アルバート・ケテルビー」の版間の差分
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| Background = maker
| Birth_name = アルバート・ウィリアム・ケテルビー<br />Albert William Ketelbey([[グレイヴ・アクセント|アクサン・グラーヴ]]は付かない)
| Alias =
| Blood = <!-- 個人のみ -->
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== 生涯 ==
[[バーミンガム]]の出身版画師であった父親ジョージ・ケテルビー(George Ketelbey、[[グレイヴ・アクセント|アクサン・グラーヴ]]は付かない)と母親セイラ・アストン(Sarah Aston)との間に出生。11歳のときには、習作の『[[ピアノソナタ]]』をウォーチェスター音楽祭で演奏、作曲家
13歳で、[[ロンドン]]の{{仮リンク|トリニティ音楽カレッジ|en|Trinity Laban Conservatoire of Music and Dance}}(Trinity College of Music)のヴィクトリア女王奨学金を受けて、[[グスターヴ・ホルスト|ホルスト]]に師事、才能を認められ、16歳で[[ウィンブルドン (ロンドン)|ウィンブルドン]]のセント・ジョン教会のオルガン奏者に迎えられる。この頃、さまざまな楽器に習熟し、プロのオーケストラでもやっていける程の技量を身につける。
22歳で教会との契約期間が切れると、一転して[[ヴォードヴィル]]劇場の音楽監督となり、軽音楽の編曲・指揮に才能を発揮し、ミュージカルは大衆受けし、
その後、30歳を過ぎた頃には本格的な[[室内楽]]や[[協奏曲]]にも傾注するが出版までには至らず、むしろポピュラーな[[軽音楽]]作曲家として名を挙げ、それらの作品は[[サイレント映画]]での伴奏音楽やカフェあるいはボールルームでの[[ムード音楽]]などとしてもてはやされ、放送局やレコード会社などの当時新しいメディアでの音楽ディレクターとして活躍した。
1912年(37歳)、軽く書いたつもりの
[[避暑地]]として有名な[[ワイト島]]の自宅において、悠々自適の生活ののち、84歳で亡くなった。
== 主要作品一覧 ==
* ''The Heart's Awakening'' (1908)
* ファントム・メロディ ''Mélodie fantôme''(1912)
* [[修道院の庭にて]] ''In a Monastery Garden'' (1915)
* 弦楽四重奏のための幻想曲 ''Phantasy for String Quartet'' (1915)
* 月の光に ''In the Moonlight'' (1919)
* [[ペルシャの市場にて]] ''In a Persian Market'' (1920)
*: ケテルビーの作品の中でも最も有名な曲の一つである。
* 牧場を渡る鐘 ''Bells Across The Meadow''(1921)
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* コクニー組曲 ''Cockney Suite'' (1924)
*: 『楽しいハムステッド地区』 ''Appy 'Ampstead'' が含まれる。
* 序曲「チャル・ロマーノ」(ジプシーの少年)''Chal Romano(Gypsy Lad)'' (1924)
* 心の奥深く ''Sanctuary Of The Hart'' (1924)
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* 水青きハワイの海にて''By the Blue Hawaiian Waters'' (1927)
* 時計とドレスデン人形 ''The Clock And The Dresden Figures'' (1930)
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* 陽気なマスコットの踊り ''Dance of the Merry Mascots'' (1932)
* 日本の屏風から ''From a Japanese Screen''(1934)
* イタリアのたそがれ ''Italian Twilight'' (1951)
* ジャングルドラム ''Jungle Drums''
* ''Tangled Tunes''
* ウェッジウッドの青 ''Wedgwood Blue'' * ギャラントリー
== 参考書籍・外部リンク ==
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