「ジャン・アンリ・ファーブル」の版間の差分

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ミルから借金した年とルキアン博物館館長を退職した年を明記
後妻ジェゼフィーヌの没年を1912年に修正。あわせてジェセフィーヌをジョゼフィーヌに統一。
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ファーブルはセリニアン移住後から徐々に有名になっていったのだが、年金による収入はなく、『昆虫記』ほか科学啓蒙書の売れ行きも出版当初は必ずしも芳しくなく、さらには教職を辞しお金に苦労していた頃の話が、有名になった後も噂として伝わったので、極貧生活にあえいでいると、この当時からすでに誤解されていた。しかしセリニアン移住後のファーブル家は、極貧どころか使用人を雇える余裕すらあった。後妻 Marie Joséphine Daudel
マリー・ジョフィーヌ・ドーデルも、そのようにしてファーブル家に雇われていた[[家政婦]]だった<ref>[[#イヴ(1992)|ファーブル伝 イヴ(1992)]] p.182</ref>。また終の棲家となったアルマスも,元々は陸軍[[旅団長]]という高級将校の居館で、その地方ではお屋敷と呼ばれるに相応しい邸宅であった<ref>[[#イヴ(1992)|ファーブル伝 イヴ(1992)]] p.81</ref>。さらにファーブルが極貧にあえいでいるとの噂を聞きつけフランス全土のみならず、ファーブルがどこよりも忌み嫌った[[プロシア]]からすらも多額の義援金がファーブルの元に送付されたが、こうした人の情けを嫌う彼の性格もあり、それらは全て差出人に送り返されている<ref>[[#津田(1976)|ファーブル巡礼 津田(1976)]] p.254</ref>。
 
このころヨーロッパ全土にファーブルを救えという運動が起き、1910年、当時の[[フランスの大統領|フランス大統領]][[レーモン・ポアンカレ]]はそれに応えるように、ファーブルに年2,000フランの年金と第5等のレジオンドヌール勲章を与えた。当時85歳を超えていたファーブルだが、最晩年にしてようやく名誉を回復したが、自身は高齢と健康を損なっていたこともあり、横になったままの時期が多くなっていく。19131912年には、40歳年下の後妻ジョフィーヌにも先立たれている<ref>[[#津田(1976)|ファーブル巡礼 津田(1976)]] p.256</ref>
 
[[1915年]]5月、ファーブルは担架に乗せられて、アルマスの庭を一巡りする(彼にとって最後の野外活動となった)。同年[[10月11日]]、老衰と[[尿毒症]]のため91歳で死去した。