「ジャン・アンリ・ファーブル」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
Willmini92 (会話 | 投稿記録) ミルから借金した年とルキアン博物館館長を退職した年を明記 |
Willmini92 (会話 | 投稿記録) 後妻ジェゼフィーヌの没年を1912年に修正。あわせてジェセフィーヌをジョゼフィーヌに統一。 |
||
61行目:
ファーブルはセリニアン移住後から徐々に有名になっていったのだが、年金による収入はなく、『昆虫記』ほか科学啓蒙書の売れ行きも出版当初は必ずしも芳しくなく、さらには教職を辞しお金に苦労していた頃の話が、有名になった後も噂として伝わったので、極貧生活にあえいでいると、この当時からすでに誤解されていた。しかしセリニアン移住後のファーブル家は、極貧どころか使用人を雇える余裕すらあった。後妻 Marie Joséphine Daudel
マリー・ジョ
このころヨーロッパ全土にファーブルを救えという運動が起き、1910年、当時の[[フランスの大統領|フランス大統領]][[レーモン・ポアンカレ]]はそれに応えるように、ファーブルに年2,000フランの年金と第5等のレジオンドヌール勲章を与えた。当時85歳を超えていたファーブルだが、最晩年にしてようやく名誉を回復したが、自身は高齢と健康を損なっていたこともあり、横になったままの時期が多くなっていく。
[[1915年]]5月、ファーブルは担架に乗せられて、アルマスの庭を一巡りする(彼にとって最後の野外活動となった)。同年[[10月11日]]、老衰と[[尿毒症]]のため91歳で死去した。
|