「東ローマ帝国」の版間の差分

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→‎名称: Ῥωμαίων ἄρχοντοςの訳語について
→‎名称: 脚注で中世ローマ帝国を用いている学者を記載
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; ビザンツ帝国、ビザンティン帝国、ビザンティオン帝国
:この帝国の7世紀頃以降は文化や領土等の点で[[ローマ帝国|古代ローマ帝国]]との違いが顕著であるため、[[16世紀]]になると<ref name="井上2009pp24-25">[[#井上2009|井上2009]]、pp.24-25。</ref><ref name="オストロゴルスキー2001pp12-13">[[#オストロゴルスキー2001|オストロゴルスキー2001]]、pp.12-13。</ref><!--確認済-->、便宜上「ビザンツ帝国」「ビザンティン帝国」「ビザンティオン帝国」といった別の名称で呼ばれるようになった。16世紀に「ビザンツ帝国」という語の使用が確立されたのは、[[人文主義者]][[メランヒトン]]の弟子{{仮リンク|ヒエロニムス・ヴォルフ|en|Hieronymus Wolf}}([[1516年]]~[[1580年]])の功績とされる<ref name="オストロゴルスキー2001pp12-13" /><!--確認済--><ref name="井上2009pp24-25" /><!--確認済--><ref>[[#南雲2018|南雲2018]]、pp.135-136。</ref><!--確認済-->。ヴォルフはビザンツ史が単純なギリシア史ともローマ帝国史とも異なる一分野であることを見抜いた人物で、[[ヴィルヘルム・クシランダー|ヴィルヘルム・ホルツマン]]、{{仮リンク|ダヴィッド・ヘッシェル|en|David Hoeschel}}、{{仮リンク|ヨハネス・レウンクラヴィウス|de|Johannes Löwenklau}}、{{仮リンク|ドゥニー・プトー|en|Denis Pétau}}、{{仮リンク|ヴルカニウス|en|Bonaventura Vulcanius}}、{{仮リンク|メウルシウス|en|Johannes Meursius}}、{{仮リンク|レオ・アラティウス|en|Leo Allatius}}ら16世紀から17世紀初頭にかけての多くの学者がヴォルフの例に従った<ref name="オストロゴルスキー2001pp12-13" /><!--確認済-->。これ以降、学問領域においては[[近代]]を経て現代に至るまで一般に「ビザンツ帝国」の名称が用いられ続けている。これらの名称は[[コンスタンティノポリス]]の旧称[[ビュザンティオン]]<ref group="注">中世・現代ギリシア語ではビザンティオン。</ref>に由来し、「ビザンツ」は[[ドイツ語]]の名詞 {{lang|de|Byzanz}}<ref group="注">ただし、標準ドイツ語発音では「ビュツァンツ」に近い。また、現代ドイツ語では地名[[ビュザンティオン]]は {{lang|de|Byzantion}},帝国の呼称としては {{lang|de|Byzantinisches Reich}} が用いられるのが一般的である。</ref>、「ビザンティン」は[[英語]]の形容詞 {{lang|en|Byzantine}}、「ビザンティオン」は[[ギリシア語]]の名詞をもとにした表記である。日本においては、[[歴史学]]では「ビザンツ」が、[[美術]]・[[建築]]などの分野では「ビザンティン」が使われることが多く、「ビザンティオン」は英語やドイツ語表記よりもギリシア語表記を重視する立場の研究者によって使用されている<ref group="注">例えば、清水睦夫『ビザンティオンの光芒―東欧にみるその文化の遺蹤—』(晃洋書房、1992年)。</ref>。ただし、これらの呼称は帝国が「古代のギリシア・ローマとは異なる世界という考えを前提として」おり<ref group="注" name="井上2009p5" /><!--確認済-->、7世紀頃以降の帝国を[[古代末期]]のローマ帝国(後期ローマ帝国)と区別するために使われることが多い。例えば{{仮リンク|オックスフォード・ビザンツ事典|en|Oxford Dictionary of Byzantium}}や人気のある通史である[[ゲオルク・オストロゴルスキー]]の『ビザンツ帝国史』や[[A.H.M.ジョーンズ]]の『後期ローマ帝国』では<!-- 「古代ローマ帝国の東方領土は602年から610年の間に消失したとされ」の文言は、南雲論文に登場していないため、コメントアウト。オストロゴルスキーとジョーンズの著作の出典が明記されるのであれば復活する-->7世紀に誕生するビザンツ帝国が6世紀までの帝国とは異なる帝国として扱われている<ref name="西洋古代史研究2012南雲">南雲泰輔[ローマ帝国の東西分裂をめぐって]『西洋古代史研究 第12号』p30,2012年</ref><ref group="注">日本では、一部の学者で「中世ローマ帝国」という用語が利用されている。[[梅田良忠]]が1958年の『東欧史』(山川出版社)で提唱し、渡辺金一が1980年に『中世ローマ帝国』(岩波新書)を出版、大月康弘が2018年に[http://id.nii.ac.jp/1109/00005198/ 「中世ローマ帝国の社会経済システム」]を書いているが、いずれも一般化はしていない。なお、中世ドイツ史研究者の三佐川亮は神聖ローマ帝国を中世ローマ帝国と書いていることがある(『ドイツ史のはじまり』あとがきp445(創文社、2013年)</ref>。
 
; ギリシア帝国、コンスタンティノープルの帝国