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'''[[毎日映画コンクール]]監督賞'''<br />[[1972年]]『約束』『旅の重さ』<br />'''[[キネマ旬報]]ベスト・テン日本映画監督賞'''<br />[[1973年]]『津軽じょんがら節』<br />'''[[日本映画批評家大賞]]監督賞'''<br />[[1993年]]『望郷』
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1974年'''[[芸術選奨]]文部大臣賞受賞'''<br />1994年 '''[[紫綬褒章]]'''<br />2000年 '''[[旭日章|勲四等旭日小綬章]]'''
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[[東京府]][[八王子市]]に生まれる。[[立教大学]]中退後、東京写真工業専門学校(現・[[東京工芸大学]])に入学する。卒業後、[[1949年]]、[[太泉映画]](現・[[東映東京撮影所]])にスチルカメラマンとして入社し、[[今井正]]の『[[ひめゆりの塔 (1953年の映画)|ひめゆりの塔]]』で「[[キネマ旬報]]スチールコンテスト」で1位入賞する。
 
[[1954年]]、[[日活]]に引き抜かれ、[[中平康]]、[[今村昌平]]、[[市川崑]]など多くの作品のスチルを担当するした若き日他には[[石原裕次郎中平康]]とも仕事仲間で親しく、裕次郎デビュー直後に、最初の写真集海とトランペット』を出している(復刻版[[月曜刊スポーツのユカ]]出版社、1987年8月)。また、石原裕次郎の最後の映画とった『凍河』の[[メガホン]]を執った脚本斎藤であ手がけてい。石原裕次郎は「耕一ちゃんの為ならカネは要らんよ」とノーギャラで『凍河』に出演したという
 
その他には[[中平康]]の『[[月曜日のユカ]]』などの脚本も手がける。
 
しかし次第に自身のイメージと作品とのあまりのずれに失望し、[[1967年]]、私財を投じて「斎藤プロダクション」を設立する。同年、自ら脚本も書いた『囁きのジョー』で監督デビューする<ref name="asahi">「斎藤耕一さん」 『朝日新聞』 2009年11月29日、13版、39面。</ref>。
 
[[1968年]]、松竹専属監督となり、『小さなスナック』などの「歌謡映画」を撮り地味な存在だていたが、[[1972年]]、[[岸惠子]]扮する仮釈放の女囚と[[萩原健一]]扮する強盗犯との短い恋を描いた『[[約束 (1972年の映画)|約束]]』で評価を得て注目を集た<ref>http://movies.yahoo.co.jp/movie/143925/</ref>。その後、『[[旅の重さ]]』、[[キネマ旬報]]ベストワンにかがやいた『[[津軽じょんがら節]]』次々と発表し、日本を代表する実力派映画監督のひとりとなる。1970年代前半には受賞も多く、この時期が全な製作活動で絶頂を築い期だった。音楽と巧みに連動した流麗な映像美は、フランスの[[クロード・ルルーシュ]]にたとえられることもある。
 
その後も日本の風土を背景にした作品を撮り続けたが、次第に寡作となる。40代で11本の監督作品を撮った斎藤も、50代、60代では各2本の発表にどどまった。しかし、70台に入ってなお意欲は衰えず、特に、当時「日本一荒れた学校」と報道された「[[稚内市立稚内南中学校]]」が全国民謡民舞大会で日本一になった実話をもとに作られた『[[稚内発・学び座]]』は、[[1999年]]に公開され、大反響を呼んだ。
 
その後も日本の風土を背景にした作品を撮り続けたが、次第に寡作となる。40代で11本の監督作品を撮った斎藤も、50代、60代では各2本の発表にどどまった。しかし、70台に入ってなお意欲は衰えず、特に、当時「日本一荒れた学校」と報道された「[[稚内市立稚内南中学校]]」が全国民謡民舞大会で日本一になった実話をもとに作られた『[[稚内発・学び座]]』は、[[1999年]]に公開され注目された。[[1974年]]、[[芸術選奨]]文部大臣賞受賞[[1994年]]、[[紫綬褒章]]受章<ref name="asahi"/>、[[2000年]]、[[勲四等]][[旭日章|旭日小綬章]]受章。
 
2009年11月28日、[[肺炎]]のため死去。{{没年齢|1929|2|3|2009|11|28}}<ref name="asahi"/>。
 
==映画監督としての代表作==
* [[囁きのジョー]](1967年)
* [[小さなスナック (映画)|小さなスナック]](1968年)