「ロバート2世 (スコットランド王)」の版間の差分

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== 生涯 ==
家名のステュート(Stewart)は役職名の[[執事]](Steward)が語源と言われ、後に[[メアリー (スコットランド女王)|メアリー女王]]が[[フランス王国|フランス]]好みから綴りをStuartに変えた。
 
母マージョリーは[[1316年]]、ロバートの出生後まもなく死去した<ref name=M150>森、p. 150</ref>。父ウォルターも[[1326年]]に死去し、ロバートはわずか10歳でスコットランド執事長の地位を継承した<ref name=M150 />。
 
[[1318年]]、[[スコットランド議会 (スコットランド王国)|スコットランド議会]]は、ロバート1世が世継ぎの男子なしで死去した場合には、マージョリーの息子に王位が与えられると定めたが、[[1324年]]に息子デイヴィッドが生まれ、[[1329年]]に[[デイヴィッド2世 (スコットランド王)|デイヴィッド2世]]として王位に就いた。しかし[[1371年]]にデイヴィッド2世は子のないまま急死し、デイヴィッド2世のフランス亡命中に摂政として実質的にスコットランド国内を統治していたロバート2世が新たに王位に就き、ステュアート朝を開いた。
 
即位時すでに54歳であったロバートは健康状態が非常に悪く、ほとんど盲目であり、「Old Blearie」(霞み目爺さん)とさえ呼ばれていた<ref>トランター、p. 157</ref>。在位中、先王デイヴィッド2世のイングランドへの身代金の支払いや、[[ダグラス家]]と[[パーシー家]]の抗争などの大きな問題を抱えていたが<ref>森、p. 151</ref>、老齢のロバートはほとんど業績を残せず<ref>森、p. 153</ref>、その息子たちが実権を握った。