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'''上野理一'''(うえのりいち、[[嘉永]]元年([[1848年]])10月 - [[大正]]8年([[1919年]])[[12月31日]])は[[朝日新聞]]の創始者。
朝日新聞の創始者(朝日新聞のHPより)。1848年(嘉永元年)の十月父保兵衛(やすべい)母かねの長男として篠山町西町の生糸商西垣屋の家に生まれる。13歳の春から[[藩校]][振徳堂]教授[[渡辺弗措]](ふっそ) の門下で学ぶ(同門に[[法貴発]])。
[[1870年]](明治3)[[久美浜県]](京都府)の産物系吏生に始まり地方の官吏を経て[[1880年]](明治13年)10月当時まだ大阪の小新聞でしかなかった[[朝日新聞社]]へ入社する。翌年社主から一切の経営を任され出資金総額三分の二を[[村山龍平]]が三分の一を[[上野理一]]が分担する事となる。その後の経営を村山と二人で行った。息子は[[上野精一]]。
 
朝日新聞の創始者(朝日新聞のHPより)。1848年(嘉永元年)の十10保兵衛(やすべい)母かねの長男として[[丹波国]]篠山町西町(現・[[兵庫県]][[篠山市]])の生糸商西垣屋の家に生まれる。13歳の春から[[藩校]][[振徳堂]]教授[[渡辺弗措]](ふっそ) の門下で学ぶ(同門に[[法貴発]]がいる)。
今なお上野、村山両家だけで株式総数の過半数を所持しているという。
 
[[1870年]](明治3)[[久美浜県]](現・[[京都府]])の産物系吏生に始まり就任。地方の官吏を経て[[1880年]](明治13年)10月当時まだ大阪の小新聞でしかなかった[[朝日新聞社]]へ入社する。翌年社主から一切の経営を任され出資金総額三分の二を[[村山龍平]]が三分の一を[[上野理一]]が分担する事となる。その後の経営を村山と二人で行った。息子は[[上野精一]]。
関連リンク
 
今なお上野、村山両家だけで株式総数の過半数を所持しているという。
 
==関連リンク==
*[http://www.city.sasayama.hyogo.jp/hiroueno.html 丹波篠山ゆかりの人 上野理一]
*[http://www.asahi.com/shimbun/honsya/j/history.html 朝日新聞の歩み]
 
[[Category:朝日新聞社|うえのりいち]]
[http://www.asahi.com/shimbun/honsya/j/history.html 朝日新聞の歩み]
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