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'''アドルフ・フリードリヒ・アルブレヒト・ハインリヒ・ツー・メクレンブルク'''({{Lang-de|Adolf Friedrich Albrecht Heinrich Herzog zu Mecklenburg [-Schwerin]}}, [[1873年]][[10月10日]] - [[1969年]][[8月5日]])は、[[ドイツ帝国|ドイツ]]の[[アフリカ]]探検家、植民地政治家。[[ドイツ領{{仮リンク|トーゴラント|en|Togoland}}総督]](在任:1912年 - 1914年)。[[第一次世界大戦]]末期の1918年11月、[[バルト連合公国]]の元首に推戴されたが、ドイツの敗戦により君臨・統治は叶わなかった。後にドイツ・オリンピック委員会(DOA)会長(在任:1948年 - 1949年)、ドイツ国民オリンピック委員会(NOK)初代会長(在任:1949年 - 1951年)を務めた。
 
== 生涯 ==
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1910年から1911年にかけ、アドルフ・フリードリヒは[[チャド湖]]、[[コンゴ盆地]]北部の諸河川、現在の[[スーダン]]に当たる[[ナイル川]]流域を踏査した。彼とその随行員は、それまでほとんど知られていなかった[[コンゴ川]]支流沿いの[[原生林]]地域や、チャド湖盆地を調査した。分隊の一つはナイル川上流近くの[[バール・エル・ガザール川]]まで進み、他の諸分隊は[[カメルーン]]南部や[[ギニア湾]]の諸島へ向かった。この探検旅行について執筆した著書『{{Lang|de|Vom Kongo zum Niger und Nil}}(コンゴからニジェール、ナイルへ)』は、探検書として今日に至るまで高い評価を得ている。
 
1912年から1914年まで、アドルフ・フリードリヒはドイツ領西アフリカの一部である[[トーゴラント]]最後の総督を務めたこの縁により、1960年に[[トーゴ]]が独立した際の公式記念式典に招待されている。[[第一次世界大戦]]後、アドルフ・フリードリヒは{{仮リンク|ドイツ植民地団体|de|Deutsche Kolonialgesellschaft}}(DKG)の副総裁を務めた。同じくアフリカ植民地政策に関わっていた異母兄の[[ヨハン・アルブレヒト・ツー・メクレンブルク|ヨハン・アルブレヒト]]が、1895年から1920年まで同団体の総裁を務めていた
 
第一次世界大戦中、アドルフ・フリードリヒは[[オーストリア=ハンガリー帝国]]軍に勤務するなどしていた。1918年11月5日、ドイツ占領下の[[バルト海]]沿岸地域において、[[アドルフ・ピラール・フォン・ピルヒャウ]]男爵を首班とする全バルト地域暫定摂政委員会が発足した。暫定摂政委員会は中世の[[テッラ・マリアナ|リヴォニア連盟]]が存在した領域(現在の[[エストニア]]、[[ラトビア]]に相当)に[[バルト連合公国]]を建国することを提案した。この国家構想では、同公国は7つの県に分けられ、首都は[[リガ]]に置かれるとされていた。この傀儡国家の元首にはアドルフ・フリードリヒが選ばれたが、彼に何らかの役割が与えられることは無く、新たに発足した摂政委員会が統治を行うとされた。しかし、バルト連合公国はドイツ帝国以外に承認国も無いまま、1918年11月28日には消滅した。
 
[[第一次世界大戦]]後、アドルフ・フリードリヒは{{仮リンク|ドイツ植民地団体|de|Deutsche Kolonialgesellschaft}}(DKG)の副総裁を務めた。同じくアフリカ植民地政策に関わっていた異母兄の[[ヨハン・アルブレヒト・ツー・メクレンブルク|ヨハン・アルブレヒト]]が、1895年から1920年まで同団体の総裁を務めていた。
アドルフ・フリードリヒは1926年から1956年まで[[国際オリンピック委員会]]のメンバーであり、また1948年から1949年までは{{仮リンク|ドイツ・オリンピック委員会|de|Deutscher Olympischer Ausschuss}}の、1949年から1951年までは{{仮リンク|ドイツ国民オリンピック委員会|de|de:Nationales Olympisches Komitee für Deutsch}}の会長を務めた。
 
アドルフ・フリードリヒは1926年から1956年まで[[国際オリンピック委員会]]のメンバーであり、また1948年から1949年までは{{仮リンク|ドイツ・オリンピック委員会|de|Deutscher Olympischer Ausschuss}}の、1949年から1951年までは{{仮リンク|ドイツ国民オリンピック委員会|de|de:Nationales Olympisches Komitee für Deutsch}}の会長を務めた。
 
アドルフ・フリードリヒは1917年4月24日に[[ゲーラ]]において、弟系ロイス侯[[ハインリヒ27世 (弟系ロイス侯)|ハインリヒ27世]]の娘[[フェオドラ・ロイス・ツー・シュライツ|フェオドラ]]と結婚した。フェオドラは一人娘[[ヴォイツラヴァ=フェオドラ・ツー・メクレンブルク|ヴォイツラヴァ=フェオドラ]](1918年 - 2019年<ref>{{Cite web|url= https://mecklenburg-strelitz.org/2019/06/04/death-of-duchess-woizlawa-feodora-of-mecklenburg-schwerin/ |title= Death of Duchess Woizlawa Feodora of Mecklenburg-Schwerin |work= |publisher= House of Mecklenburg-Schwerin |accessdate=2019-06-18}}</ref>)を出産した直後に亡くなった。ヴォイツラヴァは1939年にロイス=ケストリッツ侯子[[ハインリヒ1世・ロイス|ハインリヒ1世]]と結婚している。アドルフ・フリードリヒは1924年10月25日に、異母兄ヨハン・アルブレヒトの未亡人であるシュトルベルク=ロスラ侯女エリーザベト(1885年 - 1969年)と再婚した。