「海 (ドビュッシー)」の版間の差分
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[[File:Debussy - La Mer - The great wave of Kanaga from Hokusai.jpg|right|210px|thumb|1905年に出版された『海』初版スコアの表紙]]▼
《『'''
== 着想 ==
▲ | alt1 = 葛飾北斎『冨嶽三十六景』から「神奈川沖浪裏」
▲ | alt2 = ドビュッシー(左)とストラヴィンスキー《1910年にサティが撮影》。部屋の後方に北斎の「神奈川沖浪裏」が飾られているのが見える。
1905年にフランスで出版された『海』初版の[[総譜|オーケストラスコア]] {{Refnest|group="注"|1905年[[7月18日]]に出版され<ref name="松橋110">松橋麻利『作曲家◎人と作品-ドビュッシー』、音楽之友社、2007年5月10日、ISBN 978-4-276-22189-5、110頁</ref>、いくつかの手直しを経て同年11月15日に発売された<ref name="伝記270" />。}}の表紙デザインには、ドビュッシー自身の希望により、[[葛飾北斎]]の『[[冨嶽三十六景]]』の1つ「[[神奈川沖浪裏]]」(正確にはその左半分の大きな[[波]]の部分)が用いられた<ref name="伝記272">ルシュール、『伝記』272頁</ref>。
ドビュッシーは若い頃、後に [[オーギュスト・ロダン]]の妻となる[[カミーユ・クローデル]]と親しくしており、彼女から北斎の版画や日本美術についてレクチャーを受けたとされる<ref name="伝記120">ルシュール、『伝記』120頁</ref>。また、彼の自室には[[オディロン・ルドン]]の石版画やカミーユ・クローデルの彫刻などとともに北斎の「神奈川沖浪裏」が飾られていたとされ<ref name="伝記423">ルシュール、『伝記』423頁</ref>、実際にそのことを示す写真も残されている。
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== 初演 ==
▲[[File:Debussy - La Mer - The great wave of Kanaga from Hokusai.jpg|right|210px|thumb|1905年に出版された『海』初版スコアの表紙]]
作品の完成後、初演に向けてのリハーサルが始まるが、ドビュッシーは初演を担当する指揮者[[カミーユ・シュヴィヤール]]を全くといってよいほど信頼していなかった{{Refnest|group="注"|ドビュッシーは、ジャック・デュラン宛の1905年10月10日の書簡にて、シュヴァイヤールを「芸術家とは言いがたい人間<ref name="書簡集205">ルシュール、『書簡集』205頁</ref>」と評している。}}。また、オーケストラに配付されたパート譜には誤植が多く、ドビュッシーは本番直前まで間違った音の修正に追われるという有様であった<ref name="書簡集205" />{{Refnest|group="注"|ドビュッシーは初演の5日前の段階でも第2楽章のチェックが終わっていなかった<ref name="書簡集205" />。}}。
このような状態の中、1905年[[10月15日]]、[[パリ]]においてシュヴァイヤール指揮[[コンセール・ラムルー|ラムルー管弦楽団]]により『海』の初演は行われた{{Refnest|group="注"|当日のプログラムは、[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の[[交響曲第7番 (ベートーヴェン)|交響曲第7番]]、 [[ヴァンサン・ダンディ|ダンディ]]の『[[フランスの山人の歌による交響曲]]』、ドビュッシーの『海』、[[エクトル・ベルリオーズ|ベルリオーズ]]の『[[ローマの謝肉祭 (序曲)|ローマの謝肉祭]]』であった<ref name="伝記270">ルシュール、『伝記』270頁</ref>。}}。
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