「伊東祐賢 (志摩守)」の版間の差分

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'''伊東 祐賢'''(いとう すけかた、[[寛文]]6年([[1666年]])<ref>寛政重修諸家譜に記載される家督相続年からの逆算</ref>-[[宝永]]5年[[3月8日 (旧暦)|3月8日]]([[1708年]][[4月28日]]))は[[江戸時代]]初期の[[旗本]]。[[日向国]][[飫肥藩]]主家[[伊東家]]分家[[旗本寄合席]]伊東家第2代目。[[諱]]は祐賢。[[幼名]]は松亀。[[通称]]は采女。[[官位]]は[[従五位下]][[志摩守]]。父は[[伊東祐豊 (主膳正)|伊東祐豊]]。母は原氏。[[正室]]は酒井忠経 (兵部)の娘。子は[[伊東祐詮]]、娘([[伊東祐連]]正室)、石川豊故。最終的な[[石高]]は[[近江国]][[栗太郡]]、[[甲賀郡]]、[[野洲郡]]、[[滋賀郡]]のうち5000石。[[日向国]][[飫肥藩]]主家[[伊東家]]分家で祐豊系の[[旗本]]伊東家第2代目
 
「伊東志摩守日記」により、'''伊東志摩守'''として知られ、[[徳川綱吉]]の[[小姓]]、中奥小姓を勤める。
 
== 生涯 ==