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===韓・魏・趙の独立と晋の滅亡===
[[画像:戦国時代(紀元前350年頃)三晋地図.PNG|right|thumb|300px|三晋地図]]
春秋末期、晋は事実上、[[范氏 (晋)|范]]氏・[[智氏 (晋)|智]]氏・[[中行氏 (晋)|中行]]氏・[[趙 (戦国)|趙]]氏・[[韓 (戦国)|韓]]氏・[[魏 (戦国)|魏]]氏の4氏6家系(中行氏と智氏は、元々同じ荀氏。また、韓氏と魏氏は同じ姫姓。ゆえに4氏6家という。ただし同じ姫姓といっても韓氏は公族(晋室の分家)であるのに対し、魏氏は周王朝建国の当初に周室から別れたのでかなり縁遠い)の当主によって動かされるようになった。この6家系は他の有力大夫を排除して、六卿を世襲するようになっていた。さらに[[出公 (晋)|出公]]のときに范氏中行氏の領地を智魏氏が分割しようとしたため、出公は怒り、[[斉 (春秋)|斉]]や[[魯]]と同盟して四氏を討とうとしたが失敗し、斉へ亡命しようとしてその途中で亡くなった([[紀元前457年]])。これで晋室は全く力を失った。四氏のうち智氏が最も強大で、当主の[[智瑶]]は韓氏・魏氏を引き連れて、趙氏を滅ぼそうとした。趙氏の当主[[趙無恤]]は、韓氏の[[韓虎]]・魏氏の[[魏駒]]に「智氏は強欲なので私が滅ぼされた後は貴方達の番だ」と寝返りを促し、これに成功する。紀元前453年、三家に攻められた智氏は滅亡し、晋の領土を趙魏の三者が分け合い、それぞれ独立した([[晋陽の戦い]])。晋は曲沃と絳の2都市を中心とするわずかな領土を確保したが、三氏をおそれて晋公の方が逆に三氏に入朝し、[[哀公 (晋)|哀公]]以下5代に渡って存続した。紀元前403年、周の[[威烈王 (周)|威烈王]]によって趙、韓、魏の三氏が諸侯に列せられたため、晋の公室と三家はこの時点で名目上の君臣関係ですらなくなった(実際の三氏は諸侯になった後もしばらくの間はなお晋の家臣としての称号も自称していた)。[[紀元前376年]]、晋は韓魏の連合軍に攻められ陥落。この時晋は難攻不落で攻撃軍はかなり手間取ったという。最後の君主の[[静公 (晋)|静公]]は城を出て庶民となり、晋は滅亡した。なお、趙・魏・韓の三国を'''[[三晋]]'''と呼ぶ。また魏を単独で晋と呼ぶこともある。
 
==政治・軍制==