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Ihadanai (会話 | 投稿記録)
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契約の拘束力は前[[近代]]の社会から認められてきたが、それは身分的覊束関係と密接に結びついたものであった<ref name="omi5"/>。しかし、近代社会においては、人間は自由で平等な法的主体であり、その自由な意思に基づいてのみ権利の取得と義務の負担が認められるべきであると考えられるようになった<ref name="omi5"/>。これを表現する語として、イギリスの法制史家であるメーン(Maine)の「身分から契約へ」がある<ref>遠藤・原島・水本・川井・広中・山本(1996)4頁</ref>。
 
法的には[[資本主義|資本主義経済]]の下での社会は、[[貨幣経済]]が高度に発達し、商品流通過程においては売買契約、資本生産過程においては雇用契約([[労働契約]])の二つの契約が中核をなし、このほか他人の所有する[[不動産]]を生産手段として利用するための賃貸借契約、資本調達のための金銭消費貸借契約なが重要な機能を果たしている<ref>遠藤・原島・水本・川井・広中・山本(1996)6頁</ref><ref>川井(2010)1頁</ref>。
 
近代以後、自由な意思に基づいて締結されている以上は、人と人との合意はいかなる内容であっても絶対的なものであるとの契約至上主義がみられるようになったが、一方で契約当事者が対等な地位でない場合については不合理な内容の契約が締結されるといった点が問題化し、現代では著しく社会的妥当性・合理性を失する契約は[[公序良俗]]違反あるいは[[強行法規]]違反として拘束力が否定されたり、[[事情変更の原則]]などによって是正を受けるに至っている<ref>近江(2006)8-9頁</ref>。