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鄭国は戦国時代末期、[[秦]]の勢力が強大になった時代の人物である。小国である韓は、秦による東方への侵攻を恐れ<ref name="nipponica" />{{sfn|鶴間和幸|2015|p=42}}、秦に大規模な[[溝渠]]事業を実行させて秦を疲弊させようと考えて<ref name="nipponica" />、水利技術者である鄭国を秦に送り込んだ。鄭国は、[[咸陽市|咸陽]]北方の瓠口(現在の[[ケイ陽県|涇陽県]]付近)で{{仮リンク|ケイ河|zh|泾河|label=涇水}}([[渭水]]の支流)の水を分けて{{仮リンク|洛河 (渭河)|zh|洛河 (渭河)|label=洛水}}(同じく渭水の支流)に至らせる溝渠事業を秦王[[始皇帝|政]]に説いた<ref name="nipponica" />{{efn|鶴間によれば、溝渠工事・陵墓工事において動員されるのは刑徒であるため、これらの土木工事が秦の軍事力に与える影響力は少ないとしている{{sfn|鶴間和幸|2015|p=43}}。}}。溝渠事業は秦王政即位の翌年、[[紀元前246年]](始皇元年)に開始された{{efn|同時に陵墓([[秦始皇帝陵及び兵馬俑坑|始皇帝陵]])建設も始まった。即位した新王はまず先王の埋葬を終え、年が明けてから自らの陵墓の建設を始める、というのが、当時は制度となっていた{{sfn|鶴間和幸|2015|p=43}}。}}。
 
[[紀元前238年]]、[[ロウアイ|嫪毐]]の乱が発生したが、これに前後して、鄭国が韓から送り込まれた間者であることが発覚した{{sfn|鶴間和幸|2015|p=43}}{{efn|『史記』始皇本紀に鄭国の間諜事件は記されていない。事件の正確な時期は不明である。}}。処刑されそうになった鄭国は、間者であったことを認めた上で、溝渠事業の完成はいずれは秦の利になると説得して処刑を免れた(『史記』河渠書){{sfn|鶴間和幸|2015|p=44}}{{efn|『漢書』溝洫志にも同様の記述があるが、さら鄭国は「私は韓に数年の延命をもたらすだけですが、秦には万世の功をもたらします(臣為韓延數歲之命,而為秦建萬世之功)」と述べたという。}}。『史記』[[李斯]]列伝は、鄭国の事件が[[逐客令]]{{efn|外国人追放命令。追放対象については「外国人一般(客)」{{sfn|鶴間和幸|2015|p=44}}、とされることもある。李斯はこれに対する反駁の上書を行い、秦王政は撤回した{{sfn|鶴間和幸|2015|pp=45-46}}。}}のきっかけとなったと記すが、この因果関係は疑わしいという見方もある{{efn|清代の[[梁玉縄]]は『史記志疑』において逐客令のきっかけは嫪毐の乱であろうとしており{{sfn|鶴間和幸|2015|pp=45-46}}、鶴間も李斯列伝の記述は別個の事件を結び付けたのだろうとしてこの見方に従っている{{sfn|鶴間和幸|2015|p=45}}。}}。鄭国は溝渠事業に引き続き従事し、工事を完成させた{{sfn|鶴間和幸|2015|p=46}}。
 
完成した溝渠は、全長300余[[里]](120[[キロメートル|km]]余)に及ぶもので、4万余頃(1[[頃]]=1.82[[ヘクタール|ha]]{{sfn|鶴間和幸|2015|p=48}}として72,800ha余)を潤し{{sfn|鶴間和幸|2015|p=48}}、灌漑地域に豊かな実りをもたらした{{sfn|鶴間和幸|2015|p=48}}。「[[関中]](渭水盆地)は沃野となり、凶年はなくなった」(『史記』河渠書)と描かれる成果を挙げたこの溝渠は、鄭国の名をとって'''鄭国渠'''と呼ばれるようになった。司馬遷は、鄭国渠がもたらした豊かさが諸侯を併呑する経済力につながったと評している{{sfn|鶴間和幸|2015|p=48}}。