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{{出典の明記|date=2012年2月|ソートキー=人1303年没___世界史}}
{{基礎情報 君主
'''コンスタンティノス・ドゥーカス'''('''アンゲロス''')({{Lang|el|Κωνσταντίνος Δούκας}}, Konstantinos Doukas, ? - [[1303年]])は[[東ローマ帝国]]の地方政権[[エピロス専制侯国|テッサリア君主国]]の支配者、尊厳公([[1289年]]3月 - 1303年)。[[ヨハネス1世ドゥーカス]]の次子。中世ギリシア語表記では'''コンスタンディノス・ドゥカス'''。
| 人名 = コンスタンティノス・ドゥーカス
| 各国語表記 = Κωνσταντίνος Δούκας
title| 君主号 = [[エピロス専制侯国|テッサリア君主尊厳公]]|
| 画像 =
| 画像サイズ =
| 画像説明 =
| 在位 = [[1289年]]3月 - [[1303年]]
| 戴冠日 =
| 就任式 =
| 祝祷式 =
| 即位式 =
| 別号 =
| 配偶号 =
| 在位2 =
| 戴冠日2 =
| 配偶別号 =
| 全名 =
| 出生日 =
| 生地 =
| 死亡日 = [[1303年]]
| 没地 =
| 埋葬日 =
| 埋葬地 =
| 継承者 =
| 継承形式 =
| 配偶者1 =
after| 子女 = [[ヨハネス2世ドゥーカス|ヨハネス2世]]}}
| 王家 = [[アンゲロス王朝|アンゲロス家]]
| 王朝 = コムネノス・ドゥーカス朝
| 王室歌 =
before| 父親 = [[ヨハネス1世ドゥーカス]]|
| 母親 =
| 宗教 =
| サイン =
}}
'''コンスタンティノス・ドゥーカス'''('''アンゲロス''')({{Lang|el|Κωνσταντίνος Δούκας}}, Konstantinos Doukas, ? - [[1303年]])は[[東ローマ帝国]]の地方政権[[エピロス専制侯国|テッサリア君主国]]の支配者、尊厳公(在位:[[1289年]]3月 - 1303年)。[[ヨハネス1世ドゥーカス]]の次子。中世ギリシア語表記では'''コンスタンディノス・ドゥカス'''。
 
== 生涯 ==
[[1289年]]、父ヨハネス1世死去に際し、長男ミカエル・コムネノス([[1307年]]没)は、[[1283年]]以来[[コンスタンティノポリス]]に抑留されてしまっていた([[1283年]]以来)為、次男コンスタンティノスがテッサリア君主国の支配権を継承するした。若年であった為、当初は[[エピロス専制侯国|エピロス専制公]][[ニケフォロス1世 (エピロス専制公)|ニケフォロス1世ドゥーカス]]の妃アンナの後見の許に置かれた。その後末弟テオドロス・アンゲロスと協力してテッサリアの独立維持に力を注ぐ。特に、姉妹ヘレネの夫である[[アテネ公国|アテネ公]][[ギヨーム・ド・ラ・ロシュ]]及びその息子[[ギイ2世ド・ラ・ロシュ]]と共に反東ローマ帝国同盟を形成し、東ローマの影響力を排除した。
 
死期が近づくと、コンスタンティノスは配下の有力者を集め、アテネ公ギイ2世を幼い息子・後継者[[ヨハネス2世ドゥーカス|ヨハネス2世]]の後見人として迎えるようにとの命令を下した。[[1303年]]、コンスタンティノス、弟テオドロスは相次いで亡くなったが、有力者達はこの命令を遵守してアテネ公に仕え、東ローマのテッサリア遠征を迎え撃ったアテネ公の軍隊に加わり、テッサリア君主国の独立を維持した。
 
{{先代次代|[[エピロス専制侯国|テッサリア尊厳公]]|[[1289年]] - [[1303年]]|[[ヨハネス1世ドゥーカス]]|[[ヨハネス2世ドゥーカス]]}}
 
{{start box}}
{{Succession box|
title=[[エピロス専制侯国|テッサリア君主]]|
years=1289-1303|
before=[[ヨハネス1世ドゥーカス]]|
after=[[ヨハネス2世ドゥーカス]]}}
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{{デフォルトソート:こんすたんていのすとうかす}}