「康公 (斉)」の版間の差分
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前404年、[[三晋]]([[韓 (戦国)|韓]]・[[魏 (戦国)|魏]]・[[趙 (戦国)|趙]])が斉を攻め、康公を捕虜として[[周]]の[[威烈王 (周)|威烈王]]に謁見し、諸侯に加えられるよう求めた<ref>翌年、[[景侯 (韓)|韓虔]](韓の景侯)、[[列侯 (趙)|趙籍]](趙の列侯)、[[文侯 (魏)|魏斯]](魏の文侯)の冊封が実現した。</ref>。
前391年、康公は田和によって海上の孤島に追放され、食邑として城を1つだけ与えられ、祖先の霊を祀ることとされた。のちにその城も取り上げられ、山の中に穴を掘ってそこで暮らした。田和は自立して斉の君主と称した(田斉の太公<ref>のち、前386年に至って威烈王の子・[[安王 (周)|安王]]により正式に諸侯に列せられた。</ref>)。
前379年、康公が死去した。ここに[[呂尚|太公望]]以来の姜斉の家系は断絶し、田和の家系が斉の新たな支配者となった([[田斉]])。
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