「テオドロス1世パレオロゴス」の版間の差分

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{{出典の明記|date=2012年2月|ソートキー=人1407年没___世界史}}
{{基礎情報 皇族・貴族
'''テオドロス1世パレオロゴス'''(Theodoros I Palaiologos, <span lang="el" xml:lang="el">Θεόδωρος Α Παλαιολόγος</span>, [[1355年]]頃 - [[1407年]][[6月24日]])は[[東ローマ帝国]]地方統治者、[[モレアス専制公領|モレアス専制公]](在任[[1382年]] - [[1407年]])。[[皇帝]][[ヨハネス5世パレオロゴス]]と皇后ヘレネ・カンタクゼネ・パレオロギナの第四子(末子)、[[マヌエル2世パレオロゴス]]の弟。中世[[ギリシア語]]表記では'''セオドロス1世パレオロゴス'''。
| 人名 = テオドロス1世パレオロゴス
| 各国語表記 = Θεόδωρος Α Παλαιολόγος
| 家名・爵位 = [[モレアス専制公領|モレアス専制公]]
| 画像 = Τοιχογραφία απο τον τάφο του δεσπότη Θεόδωρου Α΄ Παλαιολόγου που τον αναπαριστά ως ηγεμόνα και μοναχό.JPG
| 画像サイズ =
| 画像説明 = テオドロス1世を描いた教会の壁画([[ミストラス]])
| 在位 = [[1382年]] - [[1407年]]
| 続柄 =
| 称号 =
| 全名 =
| 身位 =
| 敬称 =
| 出生日 = [[1355年]]頃
| 生地 =
| 死亡日 = [[1407年]][[6月24日]]
| 没地 = [[ミストラス]]
| 埋葬日 =
| 埋葬地 =
| 配偶者1 = バルトロメア・アチャイウォリ
| 子女 =
| 家名 =
| 父親 = [[東ローマ帝国|東ローマ]]皇帝[[ヨハネス5世パレオロゴス]]
| 母親 = ヘレネ・カンタクゼネ・パレオロギナ
| 栄典 =
| 役職 =
| 宗教 =
| サイン =
}}
'''テオドロス1世パレオロゴス'''(Theodoros I Palaiologos, <span lang="el" xml:lang="el">Θεόδωρος Α Παλαιολόγος</span>, [[1355年]]頃 - [[1407年]][[6月24日]])は[[東ローマ帝国]]地方統治者、[[モレアス専制公領|モレアス専制公]](在位:[[1382年]] - [[1407年]])。[[皇帝]][[ヨハネス5世パレオロゴス]]と皇后ヘレネ・カンタクゼネ・パレオロギナの第四子(末子)、[[マヌエル2世パレオロゴス]]の弟。中世[[ギリシア語]]表記では'''セオドロス1世パレオロゴス'''。
 
== 生涯 ==
若年期を[[コンスタンティノポリス]]の父の許で過ごした後、一時期[[テッサロニキ]]の統治に携わる。父及び兄マヌエル2世に常に忠実な立場を貫き、[[1376年]]の長兄[[アンドロニコス4世パレオロゴス]]帝の投獄に際しては父と共に投獄の憂き目にも遭っている。その後一族間の和平が成立すると、テオドロスは[[1380年]]に子なく死去したモレアス専制公[[マヌイル・カンダクジノス|マヌエル・カンタクゼノス]]の後継者として[[1382年]]にモレアス専制公領に派遣された。
 
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テオドロスは1407年6月24日、修道士テオドレトスとしてミストラスにて死去した。兄マヌエル2世はその死をいたみ、『弟テオドロスへの追悼演説』を残した。
 
{{先代次代|[[モレアス専制公領|モレアス専制公]]|[[1382年]] - [[1407年]]|[[ディミトリオス・カンダクジノス|デメトリオス・カンタクゼノス]]|[[テオドロス2世パレオロゴス]]}}
 
[[Category:モレアス専制公|ておとろす1せいはれおろこす]]