「イウプト2世」の版間の差分

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多くの研究者はこの勝利の石碑を元にイウプト2世を[[エジプト第23王朝|第23王朝]]の王とみなし、彼が本拠を置いた[[レオントポリス]]がその都であったと主張している<ref name=":0">{{Cite book|title=The third intermediate period in Egypt, 1100-650 B.C.|last=Kitchen, K. A. (Kenneth Anderson)|date=2009|publisher=Aris & Phillips|isbn=9780856687686|oclc=297803817}}</ref><ref>クレイトン1998 p.242</ref>。しかし、この石碑は王がデルタ地域の一部を領有していた事を端的に示しているに過ぎず、必ずしもその本拠地がレオントポリスにあったとは限らないとする説も存在する<ref>{{Cite journal|last=Spencer|first=P. A.|last2=Spencer|first2=A. J.|date=1986|title=Notes on Late Libyan Egypt|journal=The Journal of Egyptian Archaeology|volume=72|issue=1|pages=198–201|doi=10.1177/030751338607200124|issn=0307-5133}}</ref>。
またイウプト2世と第23王朝の他の王たちとの関係を示す他の史料も発見されていないため、同じ王朝に含めること自体を疑問視する研究者もいる。
 
=== 史料 ===
治世21年目の日付を記した石碑がメンデスから出土しており、他にもウセルマアトラー・セテプエンアメンの像の土台や、テル=エル・ヤフディエ出土の銘板、および青銅製のドアヒンジ等がある。
 
ブルックリン美術館所蔵の銘板は、王の姿を第3中間期の美術様式とは大きく異なるスタイルで描いており<ref group="注釈">
新王国時代以降の人物画は足が長く細身であるのが一般的であった</ref>、足が短く筋肉質なその姿はむしろ古王国時代の様式に近似している。<ref>{{cite book|last=Robins|first=Gay|authorlink=Gay Robins|title=Proportion and style in ancient Egyptian art|year=1994|publisher=University of Texas Press|location=Austin|isbn=|pp=256–257}}</ref><ref>{{cite book|last=Robins|first=Gay|title=The Art of Ancient Egypt|year=1997|publisher=British Museum Press|location=London|isbn=0714109886|pp=210-212}}</ref>
 
この銘板の発見により、従来第25王朝時代のヌビアから広まったと考えられてきた末期王朝時代の復古的な文化が、実際にはより早い時期にデルタ地域から始まったもので、クシュ地域の出土品は単に既存の流行を採用したものだと明らかになった。<ref>{{cite book|last=Redford|first=Donald B.|authorlink=Donald B. Redford|title=Pharaonic king-lists, annals and day-books: a contribution to the study of the Egyptian sense of history|year=1986|publisher=Benben Publications|location=Mississauga|isbn=0920168078|pp=328–329}}</ref><ref>{{cite journal|first=Anthony|last=Leahy|authorlink=|year=1992|title=Royal Iconography and Dynastic Change, 750-525 BC: The Blue and Cap Crowns|journal=The Journal of Egyptian Archaeology|pp=238–240|url=|volume=78}}</ref>
 
== 脚注 ==