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=== 戦中・戦後 - サルトル & ボーヴォワール 実存主義の拠点 ===
[[第世界大戦]]が勃発した[[1939年]]、ポール・ブーバル (1908-1988) がカフェ・ド・フロールを買い取った。パリの各区を舞台にした連作『新編パリの秘密』を発表した{{仮リンク|レオ・マレ|fr|Léo Malet|label=}}の第4作『サン=ジェルマン=デ=プレの夜』(邦題『サンジェルマン殺人狂騒曲』<ref>レオ・マレ『サンジェルマン殺人狂騒曲』[[藤田宜永]]訳、[[中央公論社]]([[中公文庫]])1984年。</ref>)に同店の主人として描かれる人物である。ブーバルは中南部[[アヴェロン県]]([[オクシタニー地域圏]])の{{仮リンク|サン=トゥラリー=ドルト|fr|Sainte-Eulalie-d'Olt|label=}}出身の両親のもとにパリ[[8区 (パリ)|8区]]に生まれ、カフェ・ド・フロール買収前の1922年に同区にキャバレー「{{仮リンク|ブフ・シュル・ル・トワ|fr|Le Bœuf sur le toit|label=}}(屋根の上の牡牛)」を開店していた<ref name=":2" />。店主はカフェの中央に大きな石炭ストーブを設置した。物資が不足し、すべて配給制であった戦時下で、ストーブのあるカフェに多くの作家が訪れ、何時間でも執筆し続けた<ref name=":1" />。
 
この頃最初に常連となったのは[[シモーヌ・ド・ボーヴォワール]]であった。彼女は当時、処女作『招かれた女』を執筆しており、1943年にガリマール社から出版した。1941年に、兵役に服し、[[捕虜]]収容所に収容されたサルトルが病気のためにパリに戻ると、カフェはボーヴォワール、サルトルのほか、カミュ、[[レイモン・アロン]]、[[モーリス・メルロー=ポンティ]]ら実存主義哲学者の拠点となった。1943年2月に上演されたサルトルの『蠅』、6月に出版された『[[存在と無]]』は、その大半がカフェ・ド・フロールで書かれたものである。ただし、彼らはカフェ・ド・フロールと隣のドゥ・マゴを行き来し<ref name=":1" />、ほとんど丸一日、カフェで過ごしていた。サルトルは、朝9時から正午まで執筆をして、昼食に出て午後2時に戻ると友人と夜8時まで議論し、夕食後は前もって予定を入れていた打ち合わせを行うといった日課であった<ref>{{Cite web|title=Histoire - 1939-1945 : L’Occupation|url=https://cafedeflore.fr/histoire/|website=Café de Flore|accessdate=2020-01-14|language=fr-FR|publisher=|author=Sophie Fontanel|year=2005|month=12}}</ref>。