「ヴィクター・ハーバート」の版間の差分
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作曲家としては2つの[[オペラ]]、43の[[オペレッタ]]、10の[[劇付随音楽]]、31の管弦楽曲([[交響詩]]のほか[[行進曲]]のような機会音楽も含む)、9つの[[吹奏楽]]曲、9つのチェロ曲(2つの[[チェロ協奏曲]]ふくむ)、5つの[[ヴァイオリン]]曲(ピアノ伴奏および管弦楽伴奏)、22の[[ピアノ]]曲、1つの[[カンタータ]]、54の[[歌曲]]、12の[[合唱曲]]があり、他者の作品のオーケストラ用[[編曲]]も残した。
[[1894年]]にハーバートは最初の[[オペレッタ]]《アナニヤ王子(嘘つき王子)》を作曲し、間もなく《セレナード》と《占い師》も完成させた。[[1903年]]には、《おもちゃの国の赤ん坊たち》《赤い水車》《マドモワザエル・モディスト》《お転婆マリエッタ》に相次いで着手、その他の作品の成功によって、アメリカ音楽における重鎮となった。([[チャールズ・アイヴズ]]は、このため通俗的な「軽い」音楽家としてハーバートを過小評価していたが、アイヴズも尊敬していた[[ジョージ・ホワイトフィールド・チャドウィック]]とハーバートは仲が良かった。)ハーバートのオペレッタは、今なおライト・オペラ団だけでなく、時にはより大規模なオペラ団によって上演され、録音されている。
ハーバートの最も有名なオペレッタないしはミュージカルに、以下のものがある。
*嘘つき王子 ''
*セレナード ''
*占い師 ''
*おもちゃの国の赤ん坊たち ''
*マドモワゼル・モディスト ''
*赤い水車 ''
*小さなネモ ''
*お転婆マリエッタ ''
*女魔法使い ''
*マドレーヌ ''Madeleine'' ([[1914年]])
*アイリーン、もしくはアイルランドの心 ''Eileen'',
1917年に作曲・上演された《アイリーン》は、アイルランド風のグランド・オペラを完成させようとの長年の懸案を実現したものである。最後のオペレッタは、没年の1924年に完成されている。ハーバートのオペレッタやミュージカルは、[[ラグタイム]]や[[ディキシーランド・ジャズ|ディクシーランド]]に多少影響されてはいるものの、[[ジャズ・エイジ]]における[[ブロードウェイ]]の後輩作家、[[ジョージ・ガーシュウィン]]や[[コール・ポーター]]、[[ヴィンセント・ユーマンス]]ほど徹底してジャズやブルースに影響されたわけではなかった。
ハーバートの《チェロ協奏曲第2番 ホ短調》作品30([1894年])は、生前に過小評価された作品として、近年になって再評価の機運が高まっている。この作品が[[ドヴォルザーク]]の《[[チェロ協奏曲_(ドヴォルザーク)|チェロ協奏曲ロ短調]]》に霊感を与えたことも知られるようになってきた。この他にも、《アイルランド[[狂詩曲]]》([[1893年]])、《ロマンティックな[[組曲]]》作品31([[1900年]])、マクダウェル流の管弦楽組曲《森の国の幻想》([[1902年]])および《[[コロンブス]]》([[1903年]])、連作[[交響詩]]《ヘーローとレアンドル》作品33(1900年ごろ)などの重要な管弦楽曲がある。これらの作品は、ハーバートが[[チャイコフスキー]]や[[ボロディン]]、[[カール・ゴルトマルク|ゴルトマルク]]、[[リヒャルト・シュトラウス]]らと並ぶ管弦楽法の大家であったことを物語っている。
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===ASCAP===
20世紀初頭の20年間においてハーバートは作曲家が自作から収益を得られる権利を擁護し、[[ジョン・フィリップ・スーザ]]や[[アーヴァイン・バーリン]]らと密着して働き、米国音楽著作権管理組合(ASCAP)を設立し、は10年間この組織の副総裁を務めた。この団体は現在においても、創造的な音楽家の権利を保護している。
==参考資料==
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