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[[File:Ancient Greece Marble Statue (27874163053).jpg|thumb|260px|ラムヌスから出土した女神官アリストノエの像。アテネ国立考古学博物館所蔵。]]
[[File:Nemesis marble statue, Roman copy of classical work, Prague Kinsky, NG P 5520, 140944.jpg|thumb|260px|ラムヌスのネメシス神像のより小型のローマンコピー。[[プラハ]]、{{仮リンク|キンスキー宮殿 (プラハ)|en|Kinský Palace (Prague)|label=キンスキー宮殿}}所蔵。]]
ネメシスの大きな神殿の建設は前460年から前450年頃に始まり、前430年から前420年頃まで続いた<ref>M. Miles 1989, p.134-256.</ref>。[[ヘーパイストス神殿|アテナイのヘパイストス神殿]]、[[スニオン岬]]の{{仮リンク|スニオンのポセイドン神殿|en|Temple of Poseidon, Sounion|label=ポセイドン神殿}}、{{仮リンク|アハルネス|en|Acharnes|label=アカルネス}}の[[アレス]]神殿を設計した建築家[[カリクラテス]]が設計したと考えられている。[[パルテノン神殿]]がアテナイに建設された[[ペリクレス]]の治世中に、巨大な多角形のテラス壁のある基壇の上に[[ドーリス式]]{{仮リンク|ペリペテロス|en|Peripteros}}の神殿として建設された。[[エウュンテリア]]と最下段の{{仮リンク|クレピドーマ|en|Crepidoma}}は地元産の暗い大理石で作られ、残りは白い大理石で作られた。紀元前431年に始まった[[ペロポネソス戦争]]は神殿の完成を中断させたにちがいなく、[[円柱]]の縦溝の彫刻は行われず、[[ステュロバテス]]の石材は未完成のままであり、損傷しやすい角や上面に、保護用の余分な大理石を保持していた。[[ペディメント]]に彫刻はなく、彫刻で装飾された{{仮リンク|メトープ|en|Metope}}もなかったが、屋根は彫刻の{{仮リンク|アクロテリア|en|Acroterion}}で装飾されていた。
 
オリジナルである神殿の建設後のある時点で神殿の東端がひどく損傷し、その後、上部の層が新しい石材で修復された。この地域や他の神殿の損傷、アテナイの記念碑の破壊は、[[マケドニア]]王[[フィリッポス5世]]の軍隊が前200年の襲撃の最中に引き起こしたものと考えられている。ネメシス神殿の修復に使用された石材は元の石材とは異なり、加えて細工がまったく異なっていることは古い古典神殿への関心が再興した[[ローマ時代]]に修復が行われたことを示唆している。神殿東端にある[[アーキトレーブ]]中央の石材には、デモスによる女神[[リウィア]]の再奉献の碑文が刻まれており、修復に関連している可能性がある。この再建には、[[フリーズ (建築)|フリーズ]]、{{仮リンク|ゲイソン|en|Geison}}、おそらく[[ティンパノン]]、レーキングゲイソン、アクロテリア、およびおそらく{{仮リンク|シマ (建築)|en|Sima (architecture)|label=シマ}}と、屋根瓦、天井の[[格間]]の一部の複製を作成することが必須であった神殿東端の交換を伴っていたため、費用がかかったことは想像に難くない。荒廃していたアッティカ地方の他の神殿とは異なり、ネメシス神殿は有用な部分が剥ぎ取られたり、アテネに全て移されたりすることはなかった。代わりに、地元の重要な記念碑として誇りを持って修復された。