「エリク9世 (スウェーデン王)」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
3行目:
| 正確性 = 2020年3月
| Wikify = 2020年3月
}}'''エリク9世聖王'''(1120(1120年 - 12601160年、在位 12561156年 - 12601160年)は、[[スウェーデン王]]で[[エリク家]]最初の王。[[スウェーデン国教会]]では列聖されている<ref>{{Cite web|title=エーリク(9世)(えーりく)とは|url=https://kotobank.jp/word/%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%AF%289%E4%B8%96%29-1511512|website=コトバンク|accessdate=2020-03-21|language=ja|last=日本大百科全書(ニッポニカ)}}</ref>。
 
=== 生い立ちと家族 ===
エリク9世は1120年にスウェーデンのヴェステルイェートランド地方で生まれたが、生まれた場所は不明である。父はスウェーデン軍の騎士ジェラバートと言われ、母は元スウェーデン王プロット・スヴェンの娘セシリア。弟にカルマル連合期に王となる[[カール8世 (スウェーデン王)|カール8世]]の祖先となる人物がいたといわれる。
 
=== 生涯 ===
エリクは20代後半頃にスウェーデン王[[インゲ1世 (スウェーデン王)|インゲ1世]]の孫娘で又従姉妹のクリスティーナと結婚した。さらに彼自身の外祖父が元スウェーデン王プロット・スヴェンというこれら二つの縁で地方の王位を継承した。これがのちに彼がスウェーデン王になる道を築いた作る大きな進歩きっかけだった。
 
=== 即位とその治世、スウェーデン国旗の由来 ===
1256年のクリスマスにスウェーデン王[[スヴェルケル1世 (スウェーデン王)|スヴェルケル1世]]が暗殺されスウェーデン王の座が空白となった。そんな中スウェーデン全土は新しい王のだいとう登場を望んだ。
 
そこで、地方の王であったエリクが支持を受け、即位した。エリクは王となってすぐに、北欧をキリスト教で固めるためにフィンランドに対する第一次[[北方十字軍]]を率い異教徒の制圧に向かい、勢力拡大を狙った。その遠征の際に目撃した「青空に浮かぶ金の十字架」がスウェーデン国旗のモデルとなった。第一次北方十字軍での活躍はローマ教皇の耳に届き、ローマ教皇はエリクの行いを評価した。エリクはローマ教皇という大きな後ろ盾を手に入れたのだ。このことを知ったエリクは、深く感謝し、息子のヌート(のちの[[クヌ・オブ・スウェト1世 (イグランド王(英語版)|クヌート1世]])をローマに使節として送った。さらにエリクは既婚女性の遺産相続も可能とするなどスウェーデン国内の法律を改革するという大きな功績を残した。
 
=== 脚注最期 ===
1160年5月18日の朝、エリクはウプサラで礼拝を終えて城に帰るときにマグヌス・ヘンリクソン率いる軍勢に襲われ命を落とした(マグヌスはインゲ1世の曾孫で、スウェーデンの王位請求者だった。さらにこの暗殺には、先王スヴェルケル1世の子カール・スヴェルケルソンも加担していた)。こうしてマグヌスがスウェーデン王マグヌス2世として即位したが、彼も王位を狙うカール・スヴェルケルソン(英語版)に殺され王位を奪われた。
 
=== その後のエリク家 ===
エリク暗殺後、ローマにいたエリクの息子カヌートはスウェーデンに戻り、1167年にカール・スヴェルケルソンを殺し、王位を奪った。そして彼はスウェーデン王カヌート1世として即位して約29年間王として君臨した。その後もエリク家は1250年にエリク11世が死ぬまでスヴぇルケル家と競合しつつ断続的にスウェーデン王を出した。彼の子孫は女系で玄孫のヴァルデマール1世(スウェーデン王)を経て現在のデンマーク王室につながっている。
 
=== 子女 ===
エリクはインゲ1世の孫娘のクリスティーナと結婚して以下の子女をもうけた。
 
・カヌート(1150年-1196年)後のスウェーデン王カヌート1世。在位(1167年-1196年)
 
・フィリップ(?ー?)スウェーデン王クヌート2世の祖父といわれる。
 
・キャサリン(?ー?)スウェーデンの大貴族ニルスブレイクと結婚。
 
・マーガレット(?ー1202年)1185年にノルウェー王スヴェレと結婚。
 
== 注脚 ==
<br />
<references />{{North-europe-stub}}
{{History-stub}}