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[[Image:Liu Anshi.jpg|thumb|300px|劉安世・『晩笑堂竹荘畫傳』より]]
'''劉 安世'''(りゅう あんせい、[[1048年]] - [[1125年]])は、中国・[[北宋]]時代の官僚・学者。[[字]]は器之。[[大名府]][[元城県]](現在の[[河北省]][[邯鄲市]][[大名県]])の人
 
== 略伝経歴 ==
北京大名府(現在の[[河北省]][[邯鄲市]][[大名県]])の人。[[1073年]]に[[進士]]に及第する。[[豫州|洛州]]司法参軍・河南府左軍巡判官をへて、[[哲宗 (宋)|哲宗]]即位とともに[[司馬光]]の推薦により秘書省正字に任ぜられ、[[呂公著]]の推薦で右正言に抜擢された。さらに起居舎人と左司諫を兼ね、左諫議大夫と出世した。性質は剛直で、当時の顕官を糾弾してやまなかった。
 
[[元祐]]4年12月(西暦で1090年)、後宮で妊娠の疑いがある者が出て乳母を雇用した。劉安世は哲宗の祖母の[[宣仁皇后|宣仁太后]]に上書し、未婚の少年皇帝の自律を諫めた。宣仁太后は調査し、劉氏(のちの[[昭懐皇后]])が妊娠したと突きとめ、劉氏は殴り倒され、追い出された。そのため、劉安世は劉氏の恨みを買った。
 
[[呂恵卿]]が光禄卿に復せられたとき、その不可を論じて恵卿を国の「巨蠧」(おおきいきくいむし)と罵り、[[鄧温伯]]が翰林承旨に任ぜられると、彼が王安石の党に出入りしたことを挙げてその件を斥けた。他にも[[胡宗愈]]・[[蔡確]]・[[章惇]]・[[黄履]]・[[邢恕]]・[[李常]]・[[盛陶]]・[[王彭年]]などはみな、安世の弾劾を蒙って降格された。
 
哲宗が親政を始めた[[紹聖]]元年([[1094年]]、新法派の[[章惇]]が宰相に任ぜられると、その不可を上奏した。これが僭越とみなされ、知南安軍、小・少、分司河南と徐々に左遷された。紹聖3年([[1096年]]には元祐4年の一件を蒸し返され、[[新州 (広東省)|新州]]別駕・[[英徳市|英州]]安置にまで落とされた。章惇はさらに安世を誅殺しようとしたが、偶然が重なり事なきを得て、[[梅州]]に移された。[[元符]]2年(1099([[1099]])9月、劉氏は皇后となった。その後、劉安世は梅州で捕らえられ、囚人護送車で開封へ送られた。途中、哲宗の崩御により死刑を免れた。
 
[[徽宗]]が即位すると、赦免されて集賢殿修撰・[[ウン州|鄆州]]州・[[真定府]]知府となったが、[[蔡京]]が宰相となると[[峡州]]に左遷され、[[1102年]]には元祐党石碑(旧法派を「奸人」として裁くための名簿)に入れられた。のちに宮中に復帰して龍図閣直学士となり、78歳で没した。'''忠定'''と諡された。
 
== 学問と著作 ==
司馬光に学んでその学統を承け、禅を好みその影響を受けている。元城先生と呼ばれ、その門下には[[呂本中]]を始め、[[孫偉]]・[[李光]]・[[胡珵]]・[[馬大年]]などがいる。『通鑑音義』10巻を著し、『文集』20巻があるといわれたが長い間見失われ、[[明]]の[[隆慶 (明)|隆慶]]年間に[[張応福]]が奏箚類の鈔本を発見して『言集』13巻として刊行した。徽宗の頃の永城県主簿であった馬永卿が撰集した『元城語録』3巻に、明代の[[崔銑]]が『行録』1巻を編纂してこの語録に附した。
 
== 参考文献 ==
*『三朝名臣言行録』
*『宋元学案』