「1964年の国鉄スワローズ」の版間の差分

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'''1964年の国鉄スワローズ'''(1964ねんのこくてつスワローズ)では、1964年シーズンの[[東京ヤクルトスワローズ|国鉄スワローズ]]の動向をまとめる。
 
この年の国鉄スワローズは、[[林義一]]監督の1年目のシーズンである。翌シーズン開幕後の5月に経営権を産経新聞グループに譲渡し、サンケイスワローズと改称したため、国鉄スワローズとして、シーズンを終えた最後のシーズンである。
 
== 概要 ==
前年オフに[[中沢不二雄]](当時:野球評論家)から「私の後輩に[[林義一]]がいるからコーチとして入団させてほしい」の言葉に対し、業務提携していた[[産業経済新聞社]]社長の[[水野成夫]]は「中沢が言う人だから監督になってもらおう」と監督に任命したこのシーズン、フランチャイズを[[後楽園球場]]から[[明治神宮野球場]]に正式変更してシーズンに臨んだ。この年も金田は序盤は好調で、7月16日に前人未到の4000奪三振、そして同月30日には20勝を達成して、「連続20勝」を14年まで伸ばした。しかしやがて林監督との対立が多く、特に8月には露骨に登板拒否する事が頻繁になり、最後はチームも5位に甘んじた。投手陣は打高傾向の中で防御率3.44と健闘し、打撃陣は[[豊田泰光]]の活躍で117本塁打とリーグ3位、盗塁数もリーグ4位ながら100個を記録した。林監督の解任は決定的になるも、[[産経新聞|サンケイ新聞]]以外の新聞に「林監督解任」の報道がシーズン中に出された事で、産経新聞社の水野社長は林監督の留任を主張、結局林監督は留任となったが、これに怒った金田は当時存在した「B級10年選手」の特権を行使して[[読売ジャイアンツ|巨人]]に移籍、15年所属した国鉄スワローズを去った。そしてこれをきっかけに、国鉄スワローズの身売りは時間の問題と化す。
 
== チーム成績 ==
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== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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