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外交・内政・財政さらには韓国問題まで幅広くこなした万能政治家であったものの、二流政客と称され、長州閥の実力者に肩を並べるには至らなかった。このことから「器用貧乏」ともあだ名された<ref>[http://kohkosai.com/syuuzouhin/kaisetu/jiku-japan/1849%20sone.htm 曾禰 荒助]</ref>。
 
フランス公使時代は公使館の一室に籠って、交際も何もせず、朝から晩まで[[花牌]]を引いてばかりいたため「花牌公使」とあだ名された<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/778881/77 花牌公使]『明治六十大臣 : 逸事奇談』長田偶得 (大学館, 1901) </ref>。
 
[[黒岩涙香]]によると、1898年時点で十代の愛人を2人抱えていた。一人は17歳の田中いねで小間使い兼妾として雇い、在官中はいねとともに官邸に宿泊し、日曜ごとに[[赤坂台町]]の自邸にいねを伴って帰るのが常で、その傍ら、[[三十軒堀]]の花三升の花香19歳のもとにも足しげく通っていた<ref>『弊風一斑 蓄妾の実例 』黒岩涙香、現代教養文庫、1992年、p7</ref>。