「藤原懐平」の版間の差分
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長徳2年([[996年]])に発生した[[長徳の変]]を経て執政の座は[[藤原道長]]に移り、長徳4年([[998年]])になって懐平は公卿昇進後12年を経てようやく参議に進む。しかし、議政官の傍らで、しばらく[[播磨国#国司|播磨権守]]を兼官するのみで、幾つかの造宮のほかには上卿となる機会にも乏しく、今度は15年に亘って参議に留まった。
長保5年([[1003年]])[[正三位]]・[[春宮坊|春宮権大夫]]に叙任される。春宮権大夫(のち大夫)への任官を通じて、[[春宮]]・居貞親王と密接な関係が作られることとなり、[[寛弘]]8年([[1011年]])居貞親王の[[即位]]([[三条天皇]])
その後、三条天皇と道長の関係が、天皇の体調の悪化に伴う進退と絡んで重大な局面を迎えると、天皇は[[相撲節会]]の勝敗に皇位の安泰を賭ける思いを懐平に吐露するなど、懐平を側近として頼りとしている様子が窺える。しかし、この頃から懐平も体調不良に見舞われていたらしく、長和5年([[1016年]])三条天皇の[[退位]]後に、兼帯していた皇后宮大夫および右衛門督を辞した。翌長和6年([[1017年]])4月18日薨去。[[享年]]65。最終[[官位]]は権中納言正二位。なお、懐平が没して1ヶ月たたない5月上旬に三条上皇も[[崩御]]している。
== 官歴 ==
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