「函谷関」の版間の差分

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[[紀元前361年]]、[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]の[[秦]]の[[孝公 (秦)|孝公]]が東方からの侵入を防ぐため、王都の櫟陽(れきよう、後の[[咸陽市|咸陽]]・[[長安]]郊外、現在の[[陝西省]][[西安市]][[閻良区]])の東、[[渭水|渭河]]と合流する[[黄河]]の最後の大屈曲、[[潼関]]から下流約70キロメートルの地点、南北から山脈が迫る峡谷の地({{ウィキ座標度分秒|34|38|19.23|N|110|55|16.59|E|}}、現在の河南省[[三門峡市]][[霊宝市]]函谷関鎮王垛村)に作られた。3層の[[楼閣]]2棟があったという。
 
[[紀元前241318年]]、秦王政(のちの始皇帝)は、楚趙・魏・韓・燕の5国合従軍函谷関で戦い、これ攻撃したが、秦の[[樗里疾]]が撃退た([[函谷関の戦い (紀元前241318年)]])。
 
[[紀元前241年]]、秦王政(のちの始皇帝)は、楚・趙・魏・韓・燕の5国合従軍と函谷関で戦い、これを退けた([[函谷関の戦い (紀元前241年)]])。
 
秦末の反秦戦争では、[[劉邦]]軍は守りの堅い函谷関を避け、南の{{仮リンク|武関|zh|武关}}から関中に侵入し、咸陽を陥落させた。その後の[[楚漢戦争]]で[[項籍|項羽]]軍に破壊された。