「クロード・ボンヌフォン」の版間の差分

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イタリア滞在中に、[[カンパニア]]や[[トスカーナ]]を訪ずれ、ローマで宗教絵画の再興をめざす[[ナザレ派]]の画家たちとも交流した。ナザレ派の画家には[[ユリウス・シュノル・フォン・カロルスフェルト]]、[[ヨーゼフ・アントン・コッホ]]、[[ヨハン・フリードリヒ・オーファーベック]]らがいた。
 
1830年にレヴォワルの後任として、[[リヨン国立高等美術学校]]の校長に任命され、その職を30年間に渡って続けた。版画家のヴィベール(Victor Vibert)を招き、版画のクラスを作り、ボンヌフォンが校長を務めた1831年から1860年の間に、フランス美術アカデミーの賞である[[ローマ賞]]の受賞者を17人も育てた。1834年に[[レジオン・ドヌール勲章]]シュヴァリエを受勲した。
 
1840年頃までは、イタリア風の絵画を描き、その後地元の資産家の肖像画も描いた。