「カロリング朝」の版間の差分

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[[ファイル:Empire carolingien 768-811.jpg|thumb|350px|カール時代のフランク王国('''<ref>仏語表記の元図に'''色の凡例で「小ピピン死没時のフランク王国(758年)」とある768年の誤り。[[#福井2001|福井(編)の山川世界各国史『フランス史』(2001)]]の年表を参照した。</ref>{{legend|#32adf0|カール即位時のフランク王国、'''赤橙'''が}}{{legend|#f27734|カールの獲得領、'''黄橙'''が}}{{legend|#f0c731|カールの勢力範囲、'''濃赤'''は}}{{legend|#f8366a|[[ローマ教皇領]]}}{{legend|#ffffb9|[[東ローマ帝国]]領}}]]
[[画像:Mediterráneo año 800 dC.gif|thumb|250px|カロリング朝と東ローマ帝国と[[ウマイヤ朝]]]]
{{フランスの歴史}}
'''カロリング朝'''(カロリングちょう、{{lang-fr-short|Carolingiens}}, {{lang-de-short|Karolinger}})は、[[メロヴィング朝]]に次いで[[フランク王国]]2番目の[[王朝]]。[[宮宰]][[ピピン3世]]が[[メロヴィング朝]]を倒して開いた。名称はピピン3世の父、[[カール・マルテル]]にちなむ。なお、「カロリング」は姓ではなく「カールの」という意味である。当時の[[フランク人]]には姓はなかった。
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==== イスラム勢力との戦いと名声獲得 ====
[[ファイル:Steuben - Bataille de Poitiers.png|150px250px|right|thumb|[[トゥール・ポワティエ間の戦い]]<br/>アキテーヌを支配していたウードはイスラム教徒の国境司令官ウスマンに娘を嫁がせたが、イベリア総督[[{{仮リンク|アブドゥル・ラフマーン・アル・ガーフィキー|ar|عبد الرحمن الغافقي|en|Abd al-Rahman ibn Abd Allah al-Ghafiqi|label=アブドゥル・ラフマーン]]}}はこれを殺害した。732年、アブドゥル・ラフマーンはピレネー山脈を越え南フランスに侵攻し、ードの軍を破った。カール・マルテルはアウストラシアの軍勢を率いてウードの援軍に駆けつけ、トゥールとポワティエの間の平原でこれを撃退した。この勝利でカール・マルテルの声望は大いに高まった]]
 
このころ[[イスラム教徒]]が[[北アフリカ]]から[[ジブラルタル海峡]]を越えてヨーロッパに侵入し、[[711年]]には[[西ゴート王国]]を滅ぼし、[[イベリア半島]]を支配するようになった。[[720年]]にはイスラム教徒の軍が[[ピレネー山脈]]を越えて[[ナルボンヌ]]を略奪し[[トゥールーズ]]を包囲した。ウードはイスラムの総督に自分の娘を嫁がせるなど融和を図る一方、[[732年]]にイスラム教徒が大規模な北上を企てた際にはカール・マルテルに援軍を求め、これを撃退した([[トゥール・ポワティエ間の戦い]])。
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カール・マルテルは[[フリースラント]]へのカトリック布教で活躍していた[[聖ボニファティウス|ボニファティウス]]による、[[テューリンゲン州|テューリンゲン]]・[[ヘッセン州|ヘッセン]]など王国の北・東部地域での教会組織整備を積極的に支援した。[[722年]]教皇[[グレゴリウス2世 (ローマ教皇)|グレゴリウス2世]]により司教に叙任されたボニファティウスは[[723年]]にカール・マルテルの保護状を得て、当時ほとんど豪族の私有となっていたこの地域の教会を教皇の下に再構成しようと試みた。ボニファティウスの努力によって、[[747年]]にカロリング家のカールマンが引退する頃にはこの地域の教区編成と司教座創設はほぼ完成された。またこれらの地域でローマ式典礼が積極的に取り入れられた。
 
一方でカール・マルテルはイスラム勢力に対抗するため軍事力の増強を図り<ref>イスラム勢力に対抗するためというのは通説的な見解。[[#佐藤2001|『世界歴史大系 フランス史1』[[での佐藤彰一(2001)]]<!--書籍内で参照した佐藤が執筆した章を明示する事が望ましい-->によれば、カール・マルテルの積極的な軍事行動が長距離移動に適した騎兵軍の創設を促したという。</ref>、自らの臣下に封土を与えるためネウストリアの教会財産を封臣に貸与した(「教会領の還俗」)。これにより鉄甲で武装した騎兵軍を養うことが可能となった。カール・マルテルの後継者カールマンはアウストラシアの教会財産においても「還俗」をおこなった。封臣は貸与された教会領の収入の一部を地代として教会に支払ったが、地代の支払いはしばしば滞った。この教会財産の「還俗」を容易にするため、修道院長や司教にカロリング家配下の俗人が多く任命された。
 
=== ピピン3世、カロリング朝の成立 ===
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==== 教会政策 ====
カロリング家の君主たちが進めた教会領の「還俗」はカロリング家とローマ教皇との間に疎隔をもたらしていたが、ボニファティウスを仲立ちとして両者は徐々に歩み寄った。[[739年]]頃からボニファティウスを通じてカール・マルテルと教皇は親密にやりとりしていた<ref>[[アンリ・ピレンヌ|ピレンヌ]]によれば、教皇は当時イタリア半島を脅かしていたランゴバルドに対してフランク王国が牽制を加えてくれるよう要請したらしい。カール・マルテルはしかし、イスラム教徒へ対抗するためにランゴバルド王の協力を必要としていたので、これには消極的であったという。</ref>。[[742年]]カールマンはアウストラシアで数十年間途絶えていた教会会議を召集した。[[745年]]にはボニファティウスを議長としてフランク王国全土を対象とする教会会議がローマ教皇の召集で開かれた。
 
[[751年]]ピピンはあらかじめ教皇[[ザカリアス (ローマ教皇)|ザカリアス]]の意向を伺い、その支持を取り付けた上で[[ソワソン]]に貴族会議を召集し、豪族たちから国王に選出された。さらに司教たちからも国王として推戴され、ボニファティウスによって[[王権神授説|塗油]]の儀式<ref>塗油の儀式は西ゴート王国の慣行から取り入れられたものである([[#佐藤彰一ほか1995|『西洋中世史〔上〕』p.24)24]])。「'''[[政教分離の歴史#西ゴート王国|西ゴート王国]]'''」節を参照。</ref>を受けた。[[754年]]には教皇[[ステファヌス3世 (ローマ教皇)|ステファヌス3世]]によって息子[[カール大帝|カール]]と[[カールマン (フランク王)|カールマン]]も塗油を授けられ、王位の世襲を根拠づけた。この時イタリア情勢への積極的な関与を求められ、[[756年]]には[[ランゴバルド王国]]を討伐して、ラヴェンナからローマに至る土地を教皇に献上した(「[[ピピンの寄進]]」)。
 
ピピン3世の時代には、キリスト教と王国組織の結びつきが強まった。おそらく[[763年]]ないし[[764年]]に改訂された「100章版」[[サリカ法典]]の序文では、キリスト教倫理を王国の法意識の中心に据え、フランク人を選ばれた民、フランク王国を「[[神の王国|神の国]]」とするような観念が見られる{{Sfn|勝田有恒|森征一|山内進|2004|p=70}}{{Sfn|五十嵐修|2001|pp=43-45}}。またピピン3世は王国集会に司教や修道院長を参加させることとし、さらにこれらの聖界領主に一定の裁判権を認めた。一方でこれらの司教や修道院長の任命権はカロリング朝君主が掌握していた。
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[[ファイル:Harun-Charlemagne.jpg|150px|right|thumb|[[ハールーン・アッ=ラシード|ハールーン・アッラシード]](左側)と[[カール大帝]](右側)<br/>カール大帝はイタリア支配を巡って対立していた東ローマ帝国を牽制するため、時の[[アッバース朝]][[カリフ]]、ハールーン・アッラシードに使者を派遣した]]
 
[[768年]]にピピン3世が没すると、王国は[[カール大帝]]とカールマンによって分割された<ref>この時カール大帝はアウストラシア北部・ネウストリアなどの王国北部を、カールマンはアウストラシア南部・ブルグント・アレマニアなど王国南部を領した。[[#堀越2003|堀越孝一(2003)『新書ヨーロッパ史・中世編』]]によれば、カール大帝はランゴバルド王の娘ゲルペルカと結婚したが、おそらくそれはカールマンへの牽制の意味があったという。カールマンが死ぬと、カール大帝はゲルペルカと離婚した。後世になるとゲルペルカをカールマンの妃とする説話が作られたという。それに対し{{Harvtxt|五十嵐修『地上の夢 キリスト教帝国』|2001}}はカールマンの妃をゲルベルガとし、カールの妃であったランゴバルト王女は名称不明としている。</ref>。その後[[771年]]にカールマンが早逝したので、以降カール大帝が単独で王国を支配した。
 
[[773年]]にランゴバルド王デシデリウスがローマ占領を企てると、教皇[[ハドリアヌス1世 (ローマ教皇)|ハドリアヌス1世]]はカール大帝に救援を求め、[[774年]]これに応じてデシデリウスを討伐し、支配地を併合して「ランゴバルドの国王」を称した<ref>ランゴバルド討伐の際ローマの[[復活祭]]に出席したカール大帝は[[ヴェネツィア]]・[[スポレート]]・[[ベネヴェント]]などを新たに教皇に寄進することを約束した。しかし、この約束は履行されなかった。ランゴバルド人であるベネヴェント公は東ローマ帝国と結びついてイタリアにおける皇帝の代理人として認められた。カール大帝はしばしばベネヴェント公国を攻撃したが、宗主権を完全に及ぼすことはついにできなかった。</ref>。
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教皇[[レオ3世 (ローマ教皇)|レオ3世]]は[[800年]]のクリスマスにカール大帝に[[ローマ皇帝]]としての帝冠を授け、[[西ローマ帝国]]の地に「[[フランク・ローマ皇帝|ローマ皇帝]]」が復活した。ローマ教皇との結びつきが強くになるにつれ、帝権は神の恩寵によるものという観念が強まり、宗教的権威を持つようになった<ref>たとえばカール大帝は聖像破壊運動を排斥した[[787年]]の[[第2ニカイア公会議|ニカイア公会議]]を偶像崇拝を認めたとして、『[[カールの書]]』や[[フランクフルト教会会議]]を通じて批判するなど、キリスト教の教義問題にも介入する姿勢を見せた。このニカイア公会議によって実際に確認されたことは、聖像への「尊敬」はそこに描かれた聖人へ向けられたものであるとし、それは神にのみ向けられるべき「尊崇」とは区別されるため、容認されるということであった({{Harvnb|尚樹啓太郎|1999|p=387}}、{{Harvnb|クラウス・リーゼンフーバー|2003|pp=133-134}})。また[[802年]]の一般巡察使勅令などで聖職者の腐敗を厳しく戒め、その倫理性を高めようとしている。すなわち国王巡察使は伯の地方行政を監視するとともに、一面で聖職者の風紀についても改善を目指す職務を求められていた</ref>。
 
教皇レオ3世のカール大帝への外交文書は東ローマ皇帝への書式に従い、教皇文書はカールの帝位在位年を紀年とするようになった。カール大帝は教会や修道院を厚く保護する一方、このような聖界領主から軍事力を供出させた。司教が世俗の仕事に関わる典拠とされたのは『[[旧約聖書]]』「[[サムエル記]]」であった。[[サムエル]]は人民を裁き、人民の罪を贖うために犠牲を捧げ、戦争においては従軍し、国王に塗油の儀式を行った。一方で『[[新約聖書]]』において、パウロは「主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の資を得るようにと、指示されました」(新共同訳、「[[コリントの信徒への手紙一|コリントの信徒への手紙 一]]」9.14)と述べていた。当時の聖職者の中には、この言葉が司教が世俗の職務に関わるべきではないことを述べていると考えた者もいた。そのためカール大帝はこの問題を教会会議に諮り、司教が世俗の義務を引き受けるべきであるという決定を得た<ref>{{Sfn|R・W・サザーン『西欧中世の社会と教会』|2007|pp.=196-197)</ref>197}}。世俗の領主と違って、聖界領主は世襲される心配がなかったからである。
 
またカール大帝は伯の地方行政を監察し、中央の権力を地方に浸透させるために国王巡察使を設けたが、これは一つの巡察管区に聖俗各1名の巡察使を置くものであった。カール大帝の「帝国」は、さまざまな民族を包含し、さらにそれらの民族それぞれが独自の部族法を持っている多元的な世界であったが、キリスト教信仰とその教会組織をよりどころとして、カロリング家の帝権がそれらを覆い、緩やかな統合を実現していた。君主のキリスト教化と教会組織の国家的役割の増大は、カロリング朝の帝国を1つの普遍的な「教会」、「神の国」としているかのようであった。
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=== 分割 ===
{{Main|東フランク王国|西フランク王国|中部フランク王国}}
 
広大な帝国はカール大帝自身の個人的な資質に支えられるところも大きく、またフランク人の伝統に従って分割される危険をはらんでいた。すなわちフランク王国では兄弟間による分割相続が慣習となり強固な法意識となっていたので、[[806年]]カール大帝は「王国分割令」を発布し、長子カールにアーヘンなど帝国中枢であるフランキアの、ピピンにイタリアの、ルートヴィヒにアキテーヌの支配権を確認し、帝権と王権をカール大帝が掌握するという形式をとった。その後ピピンとカールマンは早逝し、[[813年]]東ローマ皇帝がカールの帝権に承認を与えてのち、ルートヴィヒを共治帝とした。
 
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===3分割===
 
[[814年]]カール大帝が亡くなると、ルートヴィヒ1世は帝位と王権を継承した。[[817年]]に「帝国整序令」を出して長子[[ロタール1世]]を共治帝とし、次子ピピンにアキテーヌの、末子[[ルートヴィヒ2世 (東フランク王)|ルートヴィヒ]]2世にバイエルンの支配権を確認した。この時点ではロタール1世にイタリアの支配権も認められており、彼は後継者として尊重されていた。
 
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{{Reflist}}
==参考文献==
*{{cite book |和書 |editor=[[佐藤彰一 ]]ほか(編著) |title=西欧中世史〕』〉―継承と創造 |series=MINERVA西洋史ライブラリー |publisher=ミネルヴァ書房 |year=1995年。 |isbn=4623025209 |ref=佐藤ほか1995 }}
*{{cite book |和書 |editor=[[堀越孝一 ]]() |title=新書ヨーロッパ史・中世編 |series=講談社現代新書 |publisher=講談社 |year=2003年。 |isbn=4061496646 |ref=堀越2003 }}
*{{cite book |和書 |author=R・W・サザーン 著、 |authorlink=:en:R. W. Southern |translator[[上條敏子]]() |title=西欧中世の社会と教会―教会史から中世を読む |publisher=八坂書房 |year=2007 |isbn=4896948882 |ref=harv }}
*{{cite book |和書 |author=五十嵐修 |authorlink=五十嵐修 |title=地上の夢キリスト教帝国 : カール大帝の「ヨーロッパ」 講談社〈|series=講談社選書メチエ, 224〉、|publisher=講談社 |year=2001年。 |isbn=4062582244 |ref=harv }}
*{{cite book |和書 |author=勝田有恒 |authorlink=勝田有恒 |author2=森征一 |authorlink2=森征一 |author3=山内進 |authorlink3=山内進 |title=概説西洋法制史 |publisher=ミネルヴァ書房 |year=2004 |isbn=4062582244 |ref=harv }}
*[[{{cite book |和書 |author=尚樹啓太郎]] |authorlink=尚樹啓太郎 |title=ビザンツ帝国史 |publisher=東海大学出版会 |year=1999 |isbn=4486014316 |ref=harv }}
*{{cite book |和書 |author=クラウス・リーゼンフーバー 『中世思想史』|authorlink=クラウス・リーゼンフーバー |translator[[村井則夫]](、平凡社<) |title=中世思想史 |series=平凡社ライブラリー>、 |publisher=平凡社 |year=2003年。 |isbn=4582764851 |ref=harv }}
*{{cite book |和書 |others=[[柴田三千雄]]・[[樺山紘一]]・[[福井憲彦]](編) |title=フランス史〈1〉 |series=世界歴史大系 |publisher=山川出版 |year=2001 |isbn=9784634414204 |ref=佐藤2001 }}
*{{cite book |和書 |editor=[[福井憲彦]](編) |title=フランス史 |series=新版世界各国史 |volume=12 |publisher=山川出版 |year=2001 |isbn=9784634414204 |ref=福井2001 }}
 
 
== 関連項目 ==
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* [[ヴェルダン条約]]
* [[メルセン条約]]
* [[ピピン家]]
* [[ゲルマン人]]
* [[フランク王の一覧]]
* [[フランク・ローマ皇帝]]
 
== 外部リンク ==
*{{kotobank}}
 
{{フランス君主}}