「特捜刑事マイアミ・バイス」の版間の差分

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「マイアミ・バイス」が生まれた経緯としては、『「[[ヒルストリート・ブルース]]」の会議中、出席していた[[NBC]]の社長がふとひらめいた"MTV Cops"という2つの単語を紙ナプキンに走り書きした。そのメモは近くにいたヤーコヴィックに手渡され「マイアミ・バイス」が誕生した…』という逸話が有名である。
 
この「NBCの社長」とは、当時NBCエンターテインメント部門の責任者に就いていた[[:en:Brandon_Tartikoff|ブランドン・タルティコフ]]のことと思われるが、ヤーコビックによれば''”Gold Coast“'' の執筆を始めた頃はまだタルティコフと面識がなく、どこかの芸能記者が自分の記事に注目を集めようと考えた作り話だろうとのことである<ref>{{Cite web|title=How Miami Vice launched the ’80s on TV, then died with its decade|url=https://tv.avclub.com/how-miami-vice-launched-the-80s-on-tv-then-died-with-1798232906|website=TV Club|accessdate=2020-02-18|language=en-us}}</ref>。
 
ブランドン・タルティコフは32歳の若さでNBCのエンターテインメント部門を任され、ヒット作([[ヒルストリート・ブルース]]、[[ファミリータイズ]]、[[コスビー・ショー]]、[[チアーズ (テレビドラマ)|チアーズ]]、[[ナイトライダー]]、[[ロー&オーダー]]、[[特攻野郎Aチーム]]、他多数)を次々に送り出し、低迷していたNBCを全米ネットワークのトップにのし上げた実力者であった<ref>{{Cite news|title=Brandon Tartikoff, Former NBC Executive Who Transformed TV in the 80's, Dies at 48|url=https://www.nytimes.com/1997/08/28/arts/brandon-tartikoff-former-nbc-executive-who-transformed-tv-in-the-80-s-dies-at-48.html|work=The New York Times|date=1997-08-28|accessdate=2020-02-23|issn=0362-4331|language=en-US|first=Bill|last=Carter}}</ref>。MTVについては、単なる音楽番組をゴールデンタイムに流してもドラマには対抗出来ないだろうと発言しており、さらにドラマと音楽のコラボレーションを示唆するような意見を発していたことから、MTVを強く意識していたことが窺える<ref>{{Cite web|title=How Miami Vice launched the ’80s on TV, then died with its decade|url=https://tv.avclub.com/how-miami-vice-launched-the-80s-on-tv-then-died-with-1798232906|website=TV Club|accessdate=2020-03-04|language=en-us}}</ref>。また「マイアミ・バイス」にもミュージックビデオのような映像を作るのに要する多額の製作費を許可していることから、“MTV Cops”の逸話はまったく的外れではないと言えよう。
 
ヤーコヴィックが書いた"''Gold Coast''" はその後 "'''''Miami Vice'''''" に改名され、パイロットフィルムの製作が決まった。エグゼクティブ・プロデューサーには[[マイケル・マン (映画監督)|マイケル・マン]](当時40歳)が抜擢された。これまでの映画やテレビドラマにおける優れた演出や脚本、中でも「[[ザ・クラッカー/真夜中のアウトロー]]」(1981)、「[[ザ・キープ]]」(1983)で見せた映像表現、シンセサイザーを多用した音楽、銃撃やアクションシーンなどに見られる彼独特のセンスを取り入れたい意向があった。マンは初めて脚本を読んだときのことを振り返り、作品のコンセプトが非常に気に入ったことや、監督業は制約が多く自分の作品に対する自己批判が常に付きまとうがプロデューサーなら客観的な立場にあるので自分の意見が通りやすいだろうと考えた、と語っている<ref>{{Cite news|title=Of Vice and Mann|url=https://www.washingtonpost.com/archive/lifestyle/1985/10/16/of-vice-and-mann/7aeb6989-30bf-420f-8063-7f09b22f52d1/|work=Washington Post|date=1985-10-16|accessdate=2020-03-28|issn=0190-8286|language=en-US|first=Art|last=Harris}}</ref>。承諾の理由として、他にも直前の「ザ・キープ」の興行的な失敗もあったと考えられる。