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'''プブリウス・スルピキウス・クィリニウス'''({{llang|la|言語記事名=古典ラテン語|'''Publius Sulpicius Quirinius (c. 51 BC – AD 21)'''|プブリウス・スルピキウス・クィリニウス}})
は、[[ローマ帝国]]の[[シリヤ・キリキヤ]][[属州総督|総督]](在任:[[6年]] - [[9年]])。ルカの福音書2章2節で「全世界の[[住民登録]]」を行ったとされる総督クレニオ(キリニウス)として知られる。ヨセフォスによると、「キュリニオス」「クイヌリス」
、異読に、「キュレーニオス」、ラテン語版では「キリニウス」、「キリヌス」などがある。
 
<ref>『新聖書辞典』、いのちのことば社、1985年、ISBN 4-264-00706-2、P418-419。</ref>。
 
==概説生涯==
自治市ラーヌウィウムの出身で、ローマ軍兵士として戦い、前12年、皇帝[[アウグストゥス]]の元、ローマ市の[[コンスル]](執政官)に選ばれた。間もなくして、[[ガラテヤ]]の南境の山地部族、[[ホモナデンセス家]]との戦いを指揮して、勝利を収めた。、凱旋将軍顕章を授かり、前3年[[アジア州]]の総督になった。
 
紀元3年から4年まで、[[ガイウス・カイザリヤ]]の[[アルメニヤ遠征]]に後見人として同国、紀元6年から9年、シリヤ・キリキヤ地方の総督を務め、これをもって公職を退き、ローマに戻り21年に死去した行する
紀元6年から9年、皇帝アウグストゥスにより、民族の統治者・財産査定官として、シリヤ・キリキヤ地方に派遣された。同時に、騎士階級であったコーポーニオスも総督としてユダヤ人を統治するために派遣された。キュリニウスは、ユダヤ人の財産を査定して、アルケオラスの資産を処分した。このことで、ユダヤ人が衝撃を受けたが、大祭司ヨーアザロスの説得により、財産登録に応じた。
 
シリヤでの任務を終えると、公職を退き、ローマに戻り21年に死去した。
 
==キリスト教の聖書におけるクレニオ==
クィリニウスは、ルカの福音書のイエス・キリスト誕生の物語の最初に「クレニオ(クィリニウス)がシリアの総督であった時の最初の住民登録であった。」([[新改訳聖書]])言及されている。
 
ヨセフォスは住民登録を記しているが、それは[[使徒行伝]]5章37節に記されている、クィリニウスによる人口調査は紀元6年のことである。ユダヤが[[アケラオ]]の廃位によってローマの属州となったことをきっかけにクィリニウスが実施したことである。<ref>フラウィウス・ヨセフス 著、秦剛平 訳『ユダヤ古代誌6 新約時代編[XVIII][XIX][XX]』株式会社筑摩山本20001980年、ISBN 4-480-08536-X、P41P1-4211。</ref>。
 
しかし、イエスの誕生は紀元4年より前であるといわれるので、ルカ2章2節の「全世界の住民登録」は、クィリニウスが実施した紀元6年の人口調査とは異なる。つまり、ルカに記されている住民登録はヨセフォスが記していない別の登録ということになる。